② 明治・大正期における中国書跡の蒐集に関する研究研 究 者:五島美術館 学芸員 佐々木 佑 記先行研究と課題近代における中国書画の蒐集についての研究は、近年関西書画コレクション研究会による一連の調査研究などによって、着実に積み重ねられてきた(注1)。また、近代日本における中国美術受容の具体的な変容についても精緻な分析が試みられている(注2)。さらに「東洋美術史」の編纂過程における中国美術認識の様相やその変遷については、絵画史において研究がなされている(注3)。しかし、書に関する先行研究は僅少である。明治以降、美術史の編纂とともに東洋的な価値が模索されていく過程での「中国書跡」の範疇を明らかにすることは、近代日本における中国書画の価値形成そのものの研究の進展にもつながるものと考えている。そこで本研究では、明治・大正期における中国書跡の認識のあり方を、近代日本における「東洋美術史」の編纂過程における様相を視野に入れながら検討することを目的とした。調査過程においては、明治・大正・昭和期にかけて中国美術史研究と美術行政において重要な役割を果たした大村西崖(1868~1927)や瀧精一(1873~1951)が手掛けた刊行物やその言説を考察の対象とした。そのうち本報告書では、紙幅の都合上、大村西崖が主筆として参画した出版社である審美書院の活動に着目し、同社が手掛けた主要刊行物のうち、明治43年(1910)に出版(大正6年に再版)された大型図版集『支那墨寳集』を取り上げてみたい。近代日本における中国書跡の受容を語る際、明治13年(1880)に駐日清国公使である何如璋(1838~1891)の招きによって来日した楊守敬(1839~1915)が漢魏六朝時代の碑刻法帖類を携えたことが特筆される。ここでは、当時の書家たちが、これまで知られなかった碑刻法帖の拓本を知ることとなり、中国書跡に対する認識や書の表現方法が大きく転換したことが取り上げられる。また、明治40年(1907)と明治41年(1908)にオーレル・スタイン(Aurel Stein/1862~1943)やポール・ペリオ(Paul Pelliot/1878~1945)の敦煌調査によってもたらされた古写経や写本の肉筆資料は、書道史における墨書資料の書風や書体の変遷だけでなく、多領域にわたる研究に進展を促した。「敦煌学」という新たな研究分野をも生み出したことは周知のとおりである。さらに、辛亥革命(1911)を契機として、現在の中国書法史において重要な宋・元・明時代の墨書作品が日本にもたらされた。これら、近代における新たな動向は、昭和期に入って『書道全集』(平凡社、1930年)に大系的に反映され、現在の「中国― 457 ―― 457 ―
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