鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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書道史」観の基礎が形成されたといえる。本報告で取り上げる明治43年(1910)に刊行された『支那墨寳集』は、明治後期にありながらも、肉筆資料あるいは墨書作品の受容という点において黎明にあたる貴重な史料と考えられる。大村西崖と出版物大村西崖(以下、西崖)は近代日本の美術史家・美術評論家として知られる。東京美術学校彫刻科を卒業。その半生において東京美術学校教授として東洋美術史学の発展に大きく貢献した。大村西崖については、吉田千鶴子氏や塩谷純氏によって、西崖の手記をはじめとする膨大な一次資料をふまえた精密な研究が蓄積されており、その生涯については、吉田千鶴子氏「大村西崖と中国」に詳しい(注4)。また、本報告で問題とする西崖と中国美術にかかわる問題については後藤亮子氏による詳細な研究がある(注5)。西崖は、生涯をとおして美術全集や大型図版集、あるいは通史の著述・刊行を手がけた。なかでも、大正14年(1925)に刊行した『東洋美術史』(図本叢刊会)は、印度・中国・日本を対象とし、西崖晩年の記念碑的著作物として高く評価されている(注6)。注目すべきは、同著において絵画や自身の本来の専門分野である彫刻だけでなく、陶磁器・漆器・文房具、そして書にも言及している点である。審美書院は、明治30年代から大正期を通じて大型図版集・美術全集を刊行し、日本美術史研究の一翼を担った出版社である(注7)。経営は田島志一(1868~1924)、編集・執筆を西崖が分担し西崖の美術史上のキャリアの前半は審美書院を舞台に展開された。このうち『東洋美術大観』は、明治41年(1908)から大正7年(1918)にかけて全15巻が刊行された美術全集である。美術行政や政財界など多くの有力者の後援のもとに出版された。第1~7巻が「日本画」編、第8~12巻が「支那画」編、第13・14巻が「支那彫刻之部」、第15巻が「彫刻之部(日本の彫塑)」によって構成され、中国絵画が編入されていることが特徴である。ただし、『東洋美術大観』において中国書跡は編成されることなかった。一方で西崖は晩年、明治時代における古美術鑑賞の隆盛に寄与した図書として、以下のように審美書院で出版した美術全集や図版集とともに『支那墨寳集』を挙げている。…古美術鑑賞の盛を致すに与つて力あるものとして、これに関する図書の印行を認めねばならぬ。予が友人田島志一氏と共に田中青山伯の後援を得て編著発行し― 458 ―― 458 ―

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