た真美大観、東洋美術大観、東瀛珠光、支那古銅器集、支那墨寳集、藝苑心賞、美術聚英、古社寺保存会で出来た國寳帖、我が學校で輯刊した法隆寺大鏡等は即ちその尤もなるもの…(注8)本報告では、このうち西崖が『東洋美術大観』と同等の位置づけとして示した『支那墨寳集』に着目したい。とりわけ中国書跡のみを収録した本書は、西崖をはじめ当時の美術史形成の中心的な役割を果たしていた人物たちの中国書跡に対する認識の一端を補うものと考えられる。『支那墨寳集』の概要まず『支那墨寳集』の概要について確認したい(注9)。上下二冊。奥付より、明治43年(1910)8月1日に審美書院より刊行後、7年後の大正6年(1917)8月1日に再版。編集・発行・印刷ともに審美書院が一貫して手がけたことがわかる。各冊の大きさは縦49.0cm・横34.0cm。絹表紙をほどこした和綴本であり、上下二冊を藍色の大きな秩に収めている。また、秩および各冊に付された題字は、内題により、明治から大正初期にかけての書において指導的な立場であった日下部鳴鶴(1838~1922)(注10)が担当したことが分かる〔図1~3〕。所載書跡は計57件。墨書に限定されている。上冊は東晋から唐の書跡24件、下冊は宋から元に至る書跡33件が収録されている。緒言や序文、凡例はなく、目次に続き、各作品を時代ごとに掲載する。まず薄手の紙に、時代・筆者・名称・所蔵者・筆者や伝来について簡略に記し、次頁に厚手の紙にコロタイプ印刷の白黒写真図版で紹介している〔図4、5〕。所蔵者は寺社および政治家・財界の知識人たちが散見される。なかでも宮内大臣であった田中光顕(号青山/1843~1939)は、明治39年(1906)に審美書院が設立された際の筆頭株主であり、先述の西崖の言説においても明らかなように同社の出版を後援した。なお田中は、大正8年(1919)、現在の根津嘉一郎(号青山)に『支那墨寳集』収録作品を含む古写経60巻余りを譲渡し、根津嘉一郎は翌9年(1920)、東京帝国大学教授であった黒板勝美(1874~1946)の解説と共に益田孝(号鈍翁/1848~1938)、田中親美(1875~1975)らにこれらを披露する「古経同好会」を結成した。また、下條正雄(号桂谷/1842~1920)は、画家・衆議院議員としてだけでなく明治8年(1875)狩野探美らと古書画鑑賞会や明治12年(1879)佐野常民とともに龍池会(のちの日本美術協会)を結成するなど明治初期の美術行政に深くかかわった人物である。― 459 ―― 459 ―
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