掲載作品と特徴ここでは、掲載作品の傾向と注目すべき特徴について述べてみたい。上下冊に掲載されている全57件については、時代・作品名称・所蔵者を一覧に整理した〔表1〕。「現所蔵者」「指定(国指定文化財)」は現時点で判明するかぎり併記した。いずれも、現在は国宝・重要文化財等に指定される名品が数多く含まれる。まず、上冊に収録されている24件を確認したい。東晋の王羲之の筆跡を唐時代(7世紀)に搨模したNo.1「王羲之尺牘(喪乱帖)」(現 宮内庁三の丸尚蔵館蔵/国宝)(注11)やNo.2「王羲之尺牘(孔侍中帖)」(現 東京・前田育徳会蔵/国宝)を筆頭とし、その他は、西魏・北斉の古写経各1件、隋の古写経および写本3件、そして唐時代の古写経・写本17件である。このうち4件は現在、日本書跡の名品として目されている墨書も含まれており、当時は「唐写」として認識・分類されていることが特徴として挙げられる。例えば、No.12「根本説一切有部百一羯磨」(現 東京・根津美術館蔵/国宝)(注12)、No.21「漢書」(滋賀・石山寺蔵/国宝)(注13)、No.23「漢書食貨志」(愛知・宝生院/国宝)(注14)の3件は、現在は奈良時代(8世紀)に書写されたと考えられている。また、唐時代の詩人の漢詩を類別聚集したNo.15「新撰類林抄」(現 京都国立博物館蔵/国宝)(注15)は、現在は、平安時代初期(9世紀)に書写された草書の貴重な遺例と考えられている。『支那墨寳集』の初版が刊行された明治43年(1910)は、肉筆資料研究の進展におおきな影響を与えたオーレル・スタインやポール・ペリオの敦煌調査が敢行された明治40年(1907)と明治41年(1908)から間もない時期である。神田喜一郎によれば「敦煌から夥しい古書が発見されたということは、北京から羅振玉先生や田中慶太郎さんによって逸早く内藤湖南先生や狩野君山先生の許に通報されました。それから京都を中心としてわが國の敦煌学が開けてきたのであります。それは明治42年(1909年)の11月初めのこと」であったという(注16)。この時期は、実際に新聞や刊行物におけるペリオの将来品の紹介にも裏付けられる(注17)。そのため、初版刊行当初における名品の選定は、古くから日本に舶載されていたいわゆる古渡り作品の鑑賞が主流であった時代的な制約による結果であるといえよう。次に、下冊に収録されている33件を確認したい。宋から元に至るまでの書跡のうち、宋が10件、元が23件にわたって掲載されている。宋時代は、鎌倉時代の禅僧の入宋によってもたらされたと考えられている南宋の張即之筆No.30「張即之書金剛般若波羅蜜經」(京都・智積院/国宝)やNo.33「蘭渓道隆禅師法語」(神奈川・建長寺/国宝)、元時代は「清拙正澄禅師題語」(現 五島美術館蔵)などが挙げられる。現在の中国書― 460 ―― 460 ―
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