鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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法史上で語られる、宋・元・明時代の書跡の名品が本格的に日本にもたらされ、財閥や実業家をはじめとする豊富なコレクションが形成されるのは、辛亥革命を発端とする1911年以降を待たねばならない(注18)。中国禅僧の墨蹟の鑑賞と蒐集は、茶の湯の文化のなかで室町時代以降から日本独自に継承されてきた事象であることは留意すべきであり、〔表1〕に挙げた個人の所蔵者たちの多くも、茶の湯との関わりにおいて中国書跡を蒐集していたとも考えられる(注19)。『東洋美術史』における書西崖における中国書跡の認識の範疇はいかなるものであったのか。大正16年(1925)に刊行された西崖の代表的な著作である『東洋美術史』では、「太古」「唐虞」「夏」「商」「周」「秦」「漢」「晋」「南北朝」「隋」「唐」「五代」「宋」「元」「明」「清」の項目において、中国書跡に関する言及があり、ここでは歴代法書やいわゆる書家をつぶさに挙げながら解説を付している。同著は、中国で刊行された黄賓虹(1865~1955)の編集による『美術叢書』初集~三集・全40冊(1911~1918)がその種本となったと考えられており、西崖独自の見解がどれほどに反映されているのか、今後検討の余地がある。しかし、文中においては自身の中国踏査を反映した記述が散見される。ここで、当時中国書跡として評価されはじめていた「龍門二十品」に関する記述をその一例として挙げてみたい。予は今年五月此処に遊んで元魏から唐代までに出来た諸窟龕を歴覧したが、龍門諸窟中この古陽洞が一番古く、且造像銘が最も多く、謂はゆる龍門二十種は皆この窟内に在るので、数人の拓工が各々足場を掛けて頻りに墨本を取つて居た(注20)現存諸像の造像銘は、実に南北朝隋唐の金石文中一種特別なもので、大抵その造像の願文、年月、造主を記し、多数の人の力を協せて造つた碑像には、各像主、開光主、斎主、維那、邑子等の名を刻し、罕には文字の美しいものもあり、書の善いものもある。その文字の筆画が時代に由りて往々異なるので、特に之を別字と称し、それを知らねば読むことができぬ。支那人はこの銘文を拓本にして、文字として鑑賞するを常とするけれども、寧ろ彫刻史、宗教史の資料として最も貴むべきものである。(注21)― 461 ―― 461 ―

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