⒃ 神田喜一郎「敦煌学五十年」『敦煌学五十年』筑摩書房、1970年、17頁。⒄ 「敦煌発掘の古書」『大阪朝日新聞』1909年11月24~27日。⒅ 日本のコレクターによる宋元明清の蒐集の詳細な時期とその経緯については、弓野隆之「阿部コレクションの形成とその特質」国際シンポジウム報告書『関西書画コレクションの過去と未来』関西書画コレクション研究会、2012年、13~25頁、富田淳「槐安居コレクションと聴氷閣コレクション─高島菊次郎氏と三井高堅氏─」同著、57~70頁。下田章平「近代書画碑帖収蔵史について」『近代中国美術の辺界 越境する作品、交錯する藝術家』勉誠出版、2022年、276~287頁などに詳しい。⑽ 日下部鳴鶴(1838~1922)本名は東作。彦根の人。太政官・大書記官を歴任。(1880)に来日した楊守敬や(1891)年に清国にわたり呉昌碩と関わりをもち、近代における碑学の受容と学書の進展に貢献した。⑾ 紙本墨書。一幅。明治13年(1880)妙法院献上品。⑿ 掲載は巻第六にあたる1巻のみ。紙本墨書。なお全10巻のうち、巻第五が兵庫・白鶴美術館蔵⒀ 紙本墨書。本書掲載は『漢書』高帝紀下にあたる1巻のみ(列伝第四残巻とあわせて残巻2巻⒁ 紙本墨書。『漢書』食貨志巻第四。1巻。⒂ 『新撰類林抄』第四残巻。零巻1巻。紙本墨書。そのほか断簡は「南院切」の名称で、空海(774⒆ 各所蔵者と茶の湯との具体的な関わりについては、本報告では取り上げることができず更なる検討の余地があるが、大村西崖は「但日本の茶人のえらい物に思ふてゐる宋元禅僧の墨跡は、支那で少しも尊重されてゐない」(『支那の書画骨董』東亜研究講座 第8輯、東亜研究会、1926年、4頁)と述べる。⒇ 前掲注⑻「南北朝 北方の石刻造像」103頁。 同著「付記 一一〇頁の行末に左の文を脱せり」528頁。京文化財研究所所蔵[請求番号:G05///////2808](大正6年再版)を調査対象とし、図1~5は報告者が撮影した東京文化財研究所所蔵の初版本を使用した。(重要文化財)、その他は正倉院聖語蔵経巻として現存。のうち)。~835)の筆跡として諸家に分蔵されている。― 463 ―― 463 ―
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