物としてこの2人のアメリカ人との交流を丹念に追っている(注3)。しかしながら彼らノートン、スティルマン、そしてE. T. クックの3名が、英米を代表するラスキニアンであったという事実は看過されてきた。ここで「ラスキニアン」とは、ラスキンの美術思想・社会思想を出版・教育等の活動を通して世に広め、実践した人を意味する。ノートン(Charles Eliot Norton, 1827-1908)は、ハーヴァード大学で1874年から1898年まで美術を講じたアメリカの最初期の美術史学教授である。ラスキンの生涯の友人であったノートンは、アメリカ版ラスキン全集「ブラントウッド版」を刊行し、のちにラスキンの著述の遺言執行人を務めることになる人物である。スティルマン(William James Stillman, 1828-1901)は、1855年にアメリカの最初期の美術雑誌『クレヨン(■■■■■■■■■■)』を創刊し、ラスキンの美術論やラファエル前派の紹介に寄与した画家・批評家であり、ノートン同様、アメリカでのラスキン受容の立役者であった。クック(Edward Tyas Cook, 1857-1919)は、現在でもラスキンの著作の定本とみなされるラスキン全集「ライブラリー版」の編者であり、ラスキンの伝記も執筆したジャーナリストである。報告者の博士論文「近代日本における美術批評家ジョン・ラスキンの受容史(1884~1934年)」では、ラスキンの学生時代からの知友であるオックスフォード大学医学教授ヘンリー・アクランド(Henry W. Acland, 1815-1900)と蘇峰との交流に注目した。1897年3月、蘇峰はアクランドの案内で、ラスキンが設立に携わったオックスフォード博物館(現オックスフォード大学自然史博物館)を訪れ、さらにアクランド邸にて、当時同家の所蔵であったジョン・エヴァレット・ミレイの《ジョン・ラスキン》〔図1〕を蝋燭の光のもと目にしていた(注4)。この有名な肖像画を実見しえた最初期の日本人が、蘇峰だったのである。本稿では、近代日本のラスキン受容史の立場からノートン、スティルマン、クックと蘇峰との交流を再考する。これまで取り上げられることのなかった蘇峰旧蔵の書物や書簡その他の新資料を通して、明治中期から昭和初期まで一貫してラスキンを紹介しつづけた蘇峰のラスキン受容の背景を探る試みである。周知のとおり、「絵入仮名附大新聞」と謳われた『国民新聞』は(注5)、久保田米僊や平福百穂らの画家を雇い入れ、彼らの挿絵を多く掲載した。蘇峰の古希記念に刊行された『知友新稿』(1931年)には、1901年から1932年まで東京美術学校の校長であった正木直彦や詩人・美術批評家の木下杢太郎らによる寄稿文のほか、当時の画家が古希祝いに揮毫した絵画18点が収載されている(注6)。その中には百穂をはじめ、― 467 ―― 467 ―
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