鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
477/549

竹内栖鳳や横山大観、川合玉堂、三宅克己、和田英作らの作も見える。このように、日本の近代絵画史を形作った画家たちとも交流の深かった蘇峰のラスキン受容の背景を探ることは、当時の日本の美術教育者や美術批評家、画家も読んでいたであろう蘇峰のラスキン論の成立過程を辿ることでもあり、美術史上、重要な意義があると考える。1.徳富蘇峰のジョン・ラスキン受容の概要(1)蘇峰のラスキン論蘇峰のラスキンへの言及は、早くも1888年5月の『国民之友』に登場する(注7)。その後の主要な論説に、1900年4月25日~5月17日の連載「ラスキン」(『国民新聞』全10回)と1926年1月5~28日の連載「ラスキン」(同紙、全17回)がある。前者は、連載の翌年1901年刊行の『人物偶評』(注8)に収載され、後者は夕刊の一面トップを飾った。1900年の連載について、のちに近代日本の代表的なラスキン受容者となる登山家・紀行文家の小島烏水は「貪るやうにして読み耽った」(注9)と書いている。蘇峰のラスキン論の魅力は、美術批評家・社会思想家としてのラスキンの仕事のみならず、その実人生に迫ることによって、日本の読者が親しみやすい身近な存在として、ラスキンという人物像を描き出したことにある。さらに、その美術論の根幹についても「神が造りしものを、人間が勝手に変ゆること、また神の肖像ともいふべきものに向かって、画家が自分の影を写すなどといふことは、不埒千万であるといふことが、彼の教えの根本」と見事に看破していた(注10)。のみならず、美術批評家としての英米での立ち位置をも正確に捉えていた。「彼の芸術の批評は、確かに世を動かしたのである。もし英国国民の趣テースト味が、最近50年間に変わりしことを、一個人の力に帰するとすれば、最も多く、これをラスキンに帰せねばならぬ。彼は単に英国のみか、米国にまでその感化を及ぼした」(注11)。こうした直観的かつ正確な理解を可能にしたのは、次に見る蘇峰旧蔵のラスキンの原著、伝記等の関連文献であるとともに、英米のラスキニアンたちとの直接的な交流であったと考えられる。(2)蘇峰旧蔵書にみるラスキン関連文献蘇峰の旧蔵書は、同志社大学図書館蔵の徳富文庫、徳富蘇峰記念館、石川武美記念図書館蔵の成簣堂文庫等に分散しているが、本調査では同志社徳富文庫を対象とした。その理由は第一に、徳富文庫には「先生の生前病室に保存し、寄贈を約された手― 468 ―― 468 ―

元のページ  ../index.html#477

このブックを見る