鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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にされている。東京芸術大学に保管されている履歴書(注7)によると、長原は明治22年(1889)5月に東京帝国大学理科大学雇を命じられ、明治26年(1893)9月の大学令の改正に伴い理科大学助手を拝命、明治31年(1898)に東京美術学校助教授の兼務となり、翌明治32年3月9日付で東京帝国大学理科大学助教授を免官、東京美術学校助教授の専任となったとされる。長原は大学勤務の頃について多くを語っていないものの、その業務内容の一端は「箕作佳吉、飯島魁両博士の説明を聴きつつ、亀の胚盤の発生や海綿類の骨片などを描いていた」と記されている(注8)。長原の東大理学部助手から美校助教授への転出は、その後の美校から東大理学部(とくに植物学教室)への人材輩出を考える上で見逃せない動向である。後述する美校出身の洋画家である寺内萬治郎(1890-1964)は、長原の東大勤務時代の仕事を継いだ人物と言える(注9)。寺内以外に、長原を介して東大理学部の仕事をした美校生がどの程度いたのかは判然としないものの、長原が美校と東大理学部を繋ぐ人物の一人であったとは言えるだろう。2.美校卒業生の就職先としての東大植物学教室東大理学部の中でも植物学の分野では、明治大正期を通じて描画を専門とする画工が継続的に雇用されている。東大植物学教室の画工は植物の写生に従事し、植物学書や論文に載せる図版原画の制作に携わった(注10)。東大植物学教室の歩みを綴った『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』(注11)の「植物学教室職員」の項目を追っていくと、佐藤醇吉(1876-1958)、田中寅三(1879-1961)、鹽見競(1879-1922)という三名の美校卒業生が浮上する。本稿で後述する佐藤醇吉は、明治31年(1898)に東京美術学校西洋画科の選科に入学、明治33年(1900)7月に卒業している。明治35年(1902)9月29日から明治41年(1908)9月21日にかけて東大植物学教室の雇員をつとめた。田中寅三は、東京美術学校に西洋画科が開設した明治29年(1896)に、西洋画科選科第一年として入学している(注12)。明治41年(1908)10月5日から大正3年(1914)10月24日まで植物学教室に勤務した後、和歌山県立田辺中学校教師を経て、千葉園芸高等学校図画教師となった人物である。鹽見競は明治30年(1897)に東京美術学校予備科甲種に入学、明治35年(1902)に西洋画科本科を卒業した(注13)。富山県高岡中学校や南京両江師範堂に勤めたのち、大正3年(1914)に東京帝国大学理科大学植物学教室に雇員として就職している。大正9年(1920)に同助手、大正11年(1922)12月9日に在職のまま没した。つまり明治35年度から明治41年度に佐藤醇吉、明治41年度から大正3年度に田中寅三、大正3年度から大正11年度には鹽見競が、― 39 ―― 39 ―

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