鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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報告者がボストン・アシニアムの蔵書中に見い出したこの図書〔図6〕は、民友社刊の和書とノートン編の洋書の間に1901年9月10日付の蘇峰発ノートン宛書簡を綴じ込んで製本された書物である。つまり右から開けば訳書を、左から開けば原書を読むことができる。蘇峰からの手紙には、ノートンの寄贈書への謝意を表わすには、それを翻訳して日本の読者に届けるのが最上の方法であると考えたこと、日本の読者には理解が難しいと思われた書簡4通以外は『国民新聞』に連載したこと、それを味わうことのできる限られた読者の一時の関心以上の価値を鑑みて単行本化したこと、自身が序文を著し、編者であるノートンにも言及したこと、多くの人の手の届く価格に抑えたこと等が記されていた。ノートン発蘇峰宛の書簡は、徳富蘇峰記念館に4通所蔵があるが(注22)、蘇峰発ノートン宛の書簡は、上述のグリーティングカード以外は知られておらず、その意味でも貴重な資料である。原書側の見返しには「ジョージ・カボット・ウォード、1912年」「エマソンから私の祖父サミュエル・グレイ・ウォードへの書簡集」と英語で綴られており、訳書側の見返しには「60年前にこれらの書簡が送られた当の友人からジョージ・カボット・ウォードとジャスティン・ウォードへ、1903年4月」とやはりペンで綴られている。したがってこの書物は、おそらくサミュエル・グレイ・ウォード自身が製本し、亡くなる4年前に孫のジョージ・カボット・ウォードとその妻に託した可能性が高い。(2)W. J. スティルマン─美術雑誌『クレヨン』の創刊者蘇峰は、1896年11月28日のローマでスティルマンに面会した(注23)。19世紀アメリカのハドソン・リヴァー派の画家として出発し、ラスキンのみならずノートンやエマソンの友人でもあったスティルマンは、多彩な顔をもつ。1856年末に『クレヨン』の編集を退いた後(注24)、1861年から1868年までアメリカ領事としてクレタ島に駐在し、1886年から1898年までロンドン『タイムズ』紙のローマ特派員を務めた。なお、スティルマンの二人目の妻は、ラファエル前派の画家でモデルのマリー・スパルタリ(Marie Spartali, 1844-1927)であり、娘のリサ・スティルマン(Lisa Stillman, 1865-1946)も画家であった。スティルマン発蘇峰宛書簡は、同志社社史資料センターに2通、徳富蘇峰記念館に4通(注26)伝わっているほか、娘のリサ発の書簡が2通、同志社社史資料センターに所蔵されている。先行研究の指摘のとおり、蘇峰の帰国後1900年元旦号の『国民新聞』には、スティルマンの記事「西洋の芸術家の見た日本美術(Japanese Art by a Western Artist)」が― 472 ―― 472 ―

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