頭冠を戴き、右手には金剛杵、左手には金剛鈴を持つとする。その下には白象がいるが三つの頭をもち、それぞれが六牙であるという。このほか、普賢菩薩と同体とされる金剛薩埵について述べる密教経典では、さらに異なる像容が示される。『普賢金剛薩埵略瑜伽念誦儀軌』では普賢菩薩について、五仏冠を戴き、身体は水精月色の如くして、右手には五鈷杵を、左手には金剛鈴を持ち、満月輪の中にいるとする。『金剛頂瑜伽金剛薩埵五秘密修行念誦儀軌』では、普賢と等しいとする金剛薩埵について、大月輪中の大蓮華上に坐し、五仏宝冠を着け、容貌は穏やかで身体は月色のようであると述べる。以上のように、宝冠に化仏をもつ普賢菩薩について言及する経典は密教経典に限られるうえに、いずれにもその宝冠は五体の化仏のある五仏宝冠であると明記される。したがって、現存作例にみられる一仏や七仏を表す宝冠や、その他経典に記載のない持物については、密教経典や儀軌ではない他の要因に基づく表現であると推察される。ただし、密教における普賢像が必ずしも五仏宝冠を戴くとは限らないであろうことにも留意しておく必要がある。2、作例宝冠に化仏のある普賢菩薩像は、五代以降の作例が現存している。以下では、絵画と彫刻の作例を併せておおよその時代順に確認していきたい。まず、五代の敦煌榆林窟32窟における「普賢変相図」が最初期の一例として挙げられよう。本作の普賢菩薩の宝冠には朱衣の化仏が坐していることが確認できる。普賢自体は侍者の御す白象の上に半跏の姿勢をとり、右手は膝上に置き、左手は口の開いた容器を持つ。北宋時代の「金銅普賢菩薩像」(四川・万年寺蔵)〔図1〕は、普賢菩薩の聖地である峨眉山にある金銅像である。本像は『仏祖統紀』巻44等の文献によれば、太平興国5年(980)、北宋第二代皇帝太宗(在位976-997)が内侍張仁賛に命じて峨眉山白水寺(現万年寺)に鋳造させたもので、同寺に現存している。総高7.35メートル、重量62トンに及ぶ巨大な像である。後世の補修が激しく当初の表現かどうかの判断は慎重にすべきだが、現状の表現では、象上の普賢菩薩は五体の化仏が表された二層の宝冠を戴いており、手には如意を持つ。制作年代については、胡昭曦が文献資料から真宗朝にもかかる太平興国5年から大中祥符5年(1012)12月までの間、なかでも大中祥符3年(1010)4月以降の造像と想定している(注1)。また、唐から五代にかけての造像とみられる四川省楽山市の夾江千仏崖第91号龕「三僧形像および脇侍像」の頭― 480 ―― 480 ―
元のページ ../index.html#489