それぞれ植物学教室に在職していたことになる。少なくとも明治35年(1902)から大正11年(1922)にかけて、美校の西洋画科を出た者が立て続けに東大植物学教室職員に採用されていたのである。「植物学教室職員」の項目に名前は見えないものの、東大植物学教室や小石川植物園で植物を描いた美校卒業生として、日本画家の高屋肖哲(1866-1945)、洋画家の寺内萬治郎(1890-1964)をあげることができる。高屋は狩野芳崖の弟子として近年再評価の進む日本画家である(注14)。明治19年(1886)に高屋肖哲は芳崖に弟子入りし、美校の前身である文部省図画取調掛に通ったのち、美校の第一期生となった。現在、東京大学総合研究博物館には、高屋の描いた植物画数十枚が残されており、それらは小石川植物園画工の渡部鍬太郎が描いた植物画を、高屋が縮図模写として描いたと推察されるものである(注15)。寺内萬治郎は明治44年(1911)に東京美術学校に入学、大正5年(1916)に同校西洋画科を卒業している。裸婦を画題にしたことで有名だが、美校在学中には小石川植物園で植物画制作に従事した。寺内の仕事ぶりは「帝大(東大)植物園での植物標本図のアルバイトの仕事は、世界の植物学界でも高く評価されて、中井博士〔中井猛之進〕は寺内に標本画家になることを強くすすめた」という話が残されるほどの腕前であったようだ。中井猛之進・小泉源一共著『大日本樹木誌』(大正11年、成美堂)の序文には、図版の原画を主に描いた画工の山田壽雄の名前に次いで、「新進洋画家ノ鬼才寺内萬治郎君の画ク所ナリ」と寺内が作画に携わったことが記されている。3.旧帝大や帝室博物館に勤めた美校卒業生ここまで美校西洋画科の出身者を中心に述べてきたが、日本画科や彫刻科の卒業生の中にも、大学や博物館といった研究教育機関に奉職した人物は含まれる。美校の日本画科を卒業した永倉茂(1881-1951)は、明治38年(1905)から大正2年(1913)にかけて、京都帝国大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)の解剖教室に標本描画嘱託として勤務し、人体解剖図を専門に描いたとされる(注16)。昭和6年(1931)3月に美校の彫刻科本科塑像部を卒業(注17)した巽一太郎は、帝室博物館補修部で埴輪の補修や複製を手がけた。巽の活動や埴輪模型制作に詳しい平田健氏(注18)や甲田篤郎氏(注19)の論考によると、巽は美校卒業後、当時の美校教授で彫刻家の朝倉文夫が主宰する朝倉塾に入り、昭和9年(1934)から昭和13年(1938)にかけて帝室博物館補修部に勤務し、考古遺物の補修や複製を担当した。現在、東京国立博物館には巽の手になる埴輪の石膏製模造品が収蔵されている。― 40 ―― 40 ―
元のページ ../index.html#49