鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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体・五体・七体、持物としては如意か蓮華で、肩当と鰭袖を着用する場合もみられた。また、五仏宝冠のある普賢像についても、前項で確認した密教経典上で語られる密教法具を持物とするものは見られなかった。宝冠の化仏の数と持物や服制とが合致するというわけでもなく、図像全体での規範性はあまり強くなかったとみられる。制作地に関しては、画像は断定が困難であるが彫像は四川と杭州に確認することができた。とりわけ、四川地域における南宋時代の一部の華厳三聖像に化仏がみられることは、この地域で普賢菩薩における化仏宝冠の表現が先駆的に受容されていたことを示唆する。また、杭州での造像や、四川に限らないであろう画像制作の様相からは、四川とそれ以外の地域をまたがる図像の広がりと、図像伝播のきっかけがあったことが推測される。図像の伝播の契機について、次項で試論を述べたい。なお、化仏のある普賢菩薩の後世の展開については、次のような例から窺い知ることが可能である。明時代の「普賢騎象像」(台北・故宮博物院蔵)〔図9〕といった金属製の小像においては、頭部に化仏とみられる像の彫られていることが確認できる。持物は失われているが、左手の掌を上に向け、右手は握りしめたかたちで細い孔があり、本来は上述した「普賢菩薩像」(岡山・木山寺)や「釈迦諸尊集会図」(滋賀・成菩提院)のように蓮を持っていたと考えられる。なお、類似の像が北京の故宮博物院にも所蔵されている。また、明時代万暦38年(1610)の呉彬「仏涅槃図」(長崎・崇福寺蔵)では、普賢菩薩は象から降りて文殊と歩む姿で描かれているが、その頭上にも化仏が描き込まれることから、明時代以降にはより幅広い図像の普賢に化仏が描き込まれていくという流れが想定できるだろう。3、図像の伝播について宝冠に化仏を戴く普賢菩薩像の図像は前項で見たように五代以降の作例で確認することができる。それより以前の普賢菩薩像については、敦煌石窟に残る作例にも頭上の宝冠に化仏が表されるものはほぼ見られない。8世紀頃の莫高窟159窟・莫高窟205窟・榆林窟25窟、咸通5年(864)の「四観音文殊普賢図」(大英博物館蔵)、唐僖宗の大順~景福年間(890-893)に造営された莫高窟第9窟、五代前期の榆林窟第16窟といったこれらの図像は、いずれも白象に乗る普賢像であるが、宝冠には化仏ではなく宝珠などが載る。また、前述のように、化仏を戴く普賢菩薩像の最初期の例としては榆林窟32窟が挙げられるものの、同図像は後世に流行した作例と異なる要素が多い。普賢菩薩は口の開いた器物(莫高窟159窟の普賢の持つ花の入った水盤と同様のものか)を持物とするが、こうした持物と化仏のある宝冠が共存する普賢菩薩像の広― 483 ―― 483 ―

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