鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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まりは確認されない。報告者は現存作例に基づき、化仏のある宝冠を有する普賢菩薩像は、前代の伝統を引き受けながらも北宋以降に何らかの契機によって流行が始まり、その初期には四川地域での受容がみられたものと推測している。報告者がその契機に関わる背景として想定するのは、北宋宮廷における普賢信仰と、四川における化仏のある宝冠を戴く華厳三聖像の造像である。北宋宮廷の普賢信仰に関しては、前項で言及した峨眉山万年寺にある北宋時代の「金銅普賢菩薩像」がとりわけ象徴的な作例であるため、改めて造像経緯を確認しておきたい。そもそも峨眉山は、後漢時代以来の普賢菩薩にまつわる奇瑞やそれを契機とした造像譚が多く伝わっていた聖地である。この霊山に建つ万年寺については、乾徳4年(966)に太祖(在位960-976)が内侍張重進に命じて峨眉山普賢寺(現・万年寺)で佛像を荘厳させたところ、嘉州からたびたび「白水寺の普賢が現れた」との奏上があった、とする記載が『仏祖統紀』巻44にみえるように、金銅普賢像制作以前から北宋皇帝による同寺への供養と普賢の奇瑞があった。「金銅普賢菩薩像」の造像経緯は『仏祖統紀』巻44太平興国5年(980)条にみえ、太宗が内侍の張仁賛に対して、成都で高さ二丈の金銅普賢像を鋳造して峨眉山普賢寺の白水に奉安し、大閣を建ててこれを覆うよう命じたという。そして太宗による造像後も、続く皇帝が代ごとに白水寺へ寄進している。太宗が雍熙4年(987)白水寺へ宝冠・瓔珞・袈裟を送ると人々が紫雲に乗って空中を行く普賢を目撃したという記録のほか、第3代真宗(在位997-1022)が景徳4年(1007)黄金三千両を下賜して白水寺を増修したこと(『仏祖統紀』巻44)、第4代仁宗(在位1022-1063)も白水寺に多くの宝物を下賜したことが伝わる(『峨眉山志』巻3所収范成大「峨眉山行紀」)。このような北宋皇帝と万年寺およびその「金銅普賢菩薩像」との密接な関わりから、本像のような化仏のある宝冠をもつ普賢という特異な図像の生成・伝播の契機が北宋宮廷にあったと想定できるのではないだろうか(注2)。現段階では、本像の現状が当初の状態をどれほど残しているかは不確定とせざるを得ないものの、同じく五仏宝冠を戴く南宋時代の「普賢菩薩像」(クリーヴランド美術館蔵)の存在から、当初も現状のように五仏宝冠を戴いていたことはありえると報告者は考えている。四川の華厳三聖像に関しては、前項でみた作例から、南宋時代に化仏のある宝冠を戴く普賢菩薩を含めた華厳三聖像が四川地域で一部流行していたことは明らかである。文献で華厳三聖像の宝冠と化仏に関する記述は見つからず、実際の華厳三聖像で宝冠に化仏がない普賢像も多いため、化仏のある宝冠が華厳三聖の普賢に表されるよ― 484 ―― 484 ―

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