鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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うになったのは、四川における華厳三聖像流行の途上での出来事とみられる。また、華厳三聖像の広まりの起点については、四川から各地へ伝播したものであると指摘されている(注3)。杭州飛来峰や雲南などに実作例が残るほか、文献記録では北宋時代の煕寧5年(1072)の時点で開封の大相国寺に盧舎那大殿、西楼に文殊宝殿、東楼に普賢像があったと記されていることから(成尋『参天台五台山記』)、四川より開封へと華厳三聖像が伝播していたことが推測される。化仏のある宝冠を戴く普賢像についても、四川地域から中央へ流伝した可能性があるのではないだろうか。こうした四川地域における図像の生成と伝播という問題に加えて、化仏のある宝冠をもつ普賢像の受容には、北宋期における峨眉山以外での普賢菩薩信仰と関連儀礼の広まりも重要な背景として想定されるのではないか。特に注目したいのは天台における法華懺法の実践である。法華懺法とは普賢菩薩を観想するための儀礼であり、智顗が著し遵式が校訂した『法華三昧懺儀』に行法が詳しく記載される。『法華三昧懺儀』は法華経の「普賢菩薩勧発品」、「観普賢菩薩行法経」に基づいて作られているものの、『法華三昧懺儀』自体に記される普賢の外見的特徴は六牙の白象に乗るということのみであり、儀礼と図像の具体的な関係性は不明だが、法華懺法に関して『仏祖統紀』等は次のように北宋宮廷での実修や、儀礼の実践による普賢にまつわる奇瑞の記録を掲載しており興味深い。真宗は天喜5年(1021)に、四明の延慶寺の天台僧である知礼が修道していることを聞き、内侍兪源清を遣わし、国家安寧のため法華懺法を三日間実修するよう命じ、この時兪源清は懺法の趣旨を知ろうとしたので知礼は懺法の要旨を述したという(『四明尊者教行録』巻1天禧5年条、『仏祖統紀』巻45)。また、10世紀後半の天台僧の法師延寿が天台山国清寺において法華懺法を行い、夜に戟を持った神人と蓮華を手にした普賢に見えたという記録(『仏祖統紀』巻27)や、天聖三年(1025)に、会稽山の永福寺に住した法師咸潤が普賢菩薩像を造り、大衆と共に行道をしたところ仏像より放光があったという記述などがある(『仏祖統紀』巻10)。このように北宋初期には、浙江地域の天台宗においても普賢菩薩の観想を目指す法華懺法が行われており、宮廷との結びつきもみられる。現状では法華懺法の本尊画像がどのようであったか推定するに至っていないが、浙江地域においても当時積極的に制作されたはずの普賢菩薩像とその図像について、北宋宮廷の普賢信仰や四川地域の造形的流行が影響を及ぼしていた可能性について、今後検討を進めていきたい。おわりに本研究では、中国で制作された宝冠に化仏を戴く普賢菩薩像について、まず経典中― 485 ―― 485 ―

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