注⑴ 胡昭曦『四川古史考察札記』重慶出版社,1986年,166-167頁。⑵ 北宋宮廷と峨眉山および五台山信仰に関しては西林孝浩「安西楡林窟第三窟文殊菩薩像・普賢菩薩像壁画考」『アジア仏教美術論集 東アジアⅢ 五代・北宋・遼・西夏』中央公論美術出版,2021年,611-644頁などを参照。⑶ 鎌田茂雄「華厳三聖像の形成」『印度仏教学研究』第44巻第2号,1996年,105-107頁。に化仏のある宝冠の描写は密教像における五仏宝冠以外に記述のないことを確認し、現存作例にみられる宝冠に化仏のある普賢菩薩像の表現には、密教経典や儀軌以外の要因があることを想定した。次に、宝冠に化仏のある普賢像の作例を五代以降の絵画と彫刻ともに挙げて、図像上の特徴を確認した。さらに、宝冠に化仏のある普賢の図像は特に北宋時代以降に四川地域で先駆けて受容、流行、他地域への伝播がなされたとみて、そうした現象の契機について、北宋宮廷と峨眉山万年寺との密接な関わり、四川における化仏のある宝冠をもつ華厳三聖像の造像と中央への画像伝播の可能性とともに、北宋初期の法華懺法の実修の事例を挙げた。このようななかで、化仏のある宝冠を戴く普賢菩薩像は、北宋宮廷の普賢信仰や四川地域の様式が深く関わりあいながら展開した可能性が高いと考えられる。題目に掲げた南宋から元時代にかけての作例については、北宋宮廷を媒介として広まった図像が踏襲されたものと考えておきたい。果たして、化仏のある宝冠を戴く普賢菩薩像という図像自体の成り立ちの解明には至ることができなかったが、密教像との関わりや、四川地域の造像や北宋宮廷の普賢菩薩および文殊菩薩に関わる信仰と造形の総体的な考察と併せて今後の課題としたい。― 486 ―― 486 ―
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