鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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佐藤醇吉、田中寅三、鹽見競、寺内萬治郎の画歴の一端にうかがえるように、明治30年代以降の東大植物学教室では、東京美術学校西洋画科を卒業した若手を画工に採用していた。本稿で言及した者の他にも、美校に学び、大学や博物館に一時期または長期にわたり職を得た者がいた可能性は十分に考えられるだろう。4.佐藤醇吉関連資料について本稿の後半では、東大植物学教室に職を得た美校出身者の佐藤醇吉に焦点を当て、佐藤による学術分野での仕事を示す文献や一次資料を紹介する。佐藤醇吉の足跡は『東磐史学』に載る佐藤吉治氏による紹介文「盤村、佐藤醇吉画伯の略歴(画歴)紹介」(注20)が詳しい。この紹介文は、大東町(現在の岩手県一関市)の有志が佐藤醇吉没後30年にあたり顕彰会設立準備委員会を作り、佐藤に関する資料をまとめ紹介したものである。同じく佐藤醇吉の没後30年目に遺族が刊行した『画聖コロー』(注21)の「あとがき」においても、娘の佐藤マサ氏が父・佐藤醇吉の想い出を綴っている。近年では熊谷常正氏の論考(注22)において、鳥居龍蔵の朝鮮半島調査に佐藤醇吉が同行した折の詳細が「満洲探検回想録」の再録とともに詳しく論じられている。ここでは上記文献や『東京美術学校一覧』等を参照しながら、佐藤醇吉の画業の中でも、とくに学術分野や学者との交流が窺える事項を取り上げる。佐藤醇吉は明治9年(1876)に岩手県東磐井郡沖田村(現岩手県一関市)に生まれた。佐藤吉治氏(注23)によると「後上京して明治美術学校に入り、松岡寿、浅井忠、両画伯に師事」とあることから、佐藤が故郷を離れ、松岡壽と浅井忠に洋画を学んだことがわかる。明治31年(1898)、佐藤は東京美術学校西洋画科の選科に入学、明治33年(1900)7月に卒業した。美校への入学前、在学中、卒業後も松岡壽のもとで洋画研究を続けていたとあることからも、佐藤はその画業において松岡壽の影響をつよく受けたと考えられる。その後の明治35年(1902)9月29日から明治41年(1908)9月21日まで、佐藤は東京帝国大学理学部植物学教室に雇員の肩書きで勤務した(注24)。この東大植物学教室は明治30年(1897)から昭和9年(1934)にかけて同大付属施設の小石川植物園内に教室が置かれていたので、佐藤もまた植物学教室在職中は小石川植物園に通勤したものと考えられる。佐藤在職中の小石川植物園兼植物学教室には、園長であり植物学第一講座教授の松村任三、第二講座教授の三好学、助教授の藤井健次郎のほか、助手として牧野富太郎や服部廣太郎が在職していた。佐藤は、在職中はもとより退職後も、植物学者・三好学の依頼で植物画を描き〔図1〕、三好が監修した植物図譜である― 41 ―― 41 ―

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