は社外報の意味に用いることが多い。また、その刊行目的は、直接販売促進に結び付けようとするものと、企業や商品に対するグッドウィル(好意)を育てようとするものとに分かれるという。本稿では、PR誌の下位分類として、社内報、社外報、そしてその両方を含むハウス・オーガンに区分する。また戦後日本のPR概念についてアメリカのPR理論との比較から検討した河は、PR誌は、PR活動の交点であり、PRする主体である企業の世界観がもっとも鮮やかに映し出されるメディアであると述べている(注4)。まず三井呉服店は、1899年に『花ごろも』を刊行、営業案内、呉服の新柄や流行柄の記事といった商品紹介、尾崎紅葉など著名作家による小説を掲載し、美しい図案や装丁でも注目を集めた。その後、いくつかの不定期刊行物、『花ごろも』以来の内容を継承した月刊の『時好』(1903年から1908年まで)、『みつこしタイムス』(1908年から1914年まで)を経て、『三越』が1911年から1933年の終刊まで毎月発行された。これも商品カタログの要素と文芸雑誌の性格を併せ持つもので、大正期前半頃まで、誌上では文学を利用した宣伝戦略が積極的に試されたという(注6)。神野由紀は、近代日本の消費社会における趣味概念を手がかりに、これら三越のPR誌は、消費者に対してわかりやすく目に見える形で、高級感を帯びた絶妙な和洋折衷を基調とした三越趣味を凝縮して表現しようとしたと指摘する(注7)。神野によれば、趣味は、ものの趣き、人が感じ取る審美的能力にもとづく好み(taste)、楽しみとして愛好する活動(hobby)という三つの重なる意味をもつが、明治期以降の消費社会に生きる人々にとって、趣味は「なりたい自分」という自分らしさを演出するための記号となり、百貨店は品物を通じて趣味を獲得できる場として機能した。三越趣味は、こうしたさまざまな趣味を三越の店舗に集約させることを通して創出された、総体としての企業イメージであったという。百貨店は、ものにイメージを付加することで消費の効率を高めることを使命としたからこそ、三越にとって三越趣味という企業イメージの形成は必須の課題であったとも指摘する(注8)。PR誌を多く所蔵するアドミュージアム東京によれば、日本のPR誌にあたる刊行物の嚆矢として、『芳譚雑誌』(1878年に薬店を営む守田治兵衛が刊行)、『学燈』(1897年に丸善が創刊)があげられる(注5)。これらは、自社製品の広告や目録とともに、文芸作品なども掲載し、文芸雑誌の役割も兼ねたという。その後、さまざまな業種がPR誌を手がけたが、特に百貨店の先駆となった合名会社三井呉服店(1904年より株式会社三越呉服店)は、現在の通信販売にあたる方式での販路拡大を図るべく、消費者向けの社外報としてのPR誌を刊行した。― 491 ―― 491 ―
元のページ ../index.html#500