鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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われる。また中頁には、7分割した段組みのうち記事下2段が自社広告にあてられ、広告でも商品写真が多用されている〔図2〕。この写真は商品の外装の詳細を示すとともに、そのディスプレイを提案するもののようでもある。そこには、小売店へ向けての商品の理解や販売の促進という意図があったと考えられる。これらから、誌面デザインの特徴として、新聞のレイアウトを参照し、写真の視覚的な効果を意識したことが指摘できる。そのほか、特徴的な視覚的表現として、モノクロ印刷が通例であった本誌において、3周年記念号と称された24号(1925年5月)と4周年記念にあたる36号(1926年5月)では表紙(裏面にあたる終頁も)に四色刷が試された〔図3〕。24号では、複数のキャラメル紙パッケージがアール・デコ調の円形でレイアウトされた図柄を背景に、椅子に寝そべる少女を描いたものである。この少女の図柄は、イギリスで広告に利用されたジョン・エヴァレット・ミレイ(John Everett Millais 1829-1896)のファンシーピクチャーを彷彿とさせ、ミルクキャラメルのポスターでも採用された。こうしてみると、このPR誌は、当時先端的な技術であった多色刷印刷や写真製版を用い、アール・デコ調などのデザインを採用して誌面を装飾することで先端的な趣きを演出したと思われ、その際に流行=好みとしてのデザインが意識されたと考えられる。以上の点を考慮するならば、『森永月報』は、三越の試みと似通い、PR誌を通して企業イメージとしての趣味の形成を模索したのではないだろうか。3『スヰート』の記事内容とそのデザイン洋菓子業界を見渡すと、1920年代にかけて洋菓子の需要が増えたことに伴い、明治製菓(1916年前身の東京菓子株式会社として設立、1924年明治製菓と改称)、江崎商店(1921年大阪で設立)をはじめ、洋菓子メーカーが乱立した。特に、明治製菓は、新聞広告、劇場利用、街頭宣伝などで森永製菓と対抗した(注12)。明治製菓は、『森永月報』創刊からおよそ1ヶ月後、東京菓子株式会社時代に『スヰート』を刊行したが、これは対抗関係にあったからこその刊行時期であったかもしれない。戦間期の明治製菓における宣伝戦略を担った社員・内田誠について調査した広瀬徹によれば、第1期(1923年6月から1925年)では、月刊で計18冊刊行し、第2期(1925年10月から1943年1月)では、年4回の季刊(1938から隔月刊)で、「文芸誌」の性格が加味された内容となった(注13)。なお、本誌は1943年に終刊、その後戦時下で誌名が『栄養の友』に改められ、3号のみ発刊されたという。広瀬によれば、『スヰート』は、創刊当初より、消費者に向けてではなく「販売店及び販売チャネル向けの情― 494 ―― 494 ―

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