『花菖蒲図譜』(1911年、芸艸堂)(注25)や『櫻花図譜』(1921年、芸艸堂)の原画を手がけている。佐藤の植物学教室在職時に助手であった服部廣太郎は、佐藤が後年勤務する宮内庁生物学研究所の創設に深く携わった人物である。約5年間の植物学教室勤務を通じ、佐藤は植物学方面の研究者との人脈を築き、植物学的な植物の描写の訓練を重ねていったのであろう。大正元年(1912)、佐藤は朝鮮総督府より資料調査臨時補助を嘱託され、同年10月から大正2年(1913)3月にかけて民族学者・鳥居龍蔵の第二回朝鮮半島調査に同行した(注26)。大正2年(1913)から昭和5年(1930)にかけて、鳥居龍蔵は宮崎県、鹿児島県、熊本県での遺跡調査を行っており、佐藤は調査の記録者として数多くのスケッチを描いた。大正2年(1913)には鳥居龍蔵による宮崎県の西都原古墳調査に同行、古墳や出土遺物のスケッチを多数残している(注27)〔図2〕。佐藤が描いたスケッチの大半は、紙に鉛筆や水彩絵の具で描写されており、古墳の全景や出土した考古遺物がすばやい筆致で描き留められている。古墳の全景を描いた図〔図3〕には、古墳近くに人物のシルエットが描きこまれており、人のおおよその背丈を目安にして、古墳のスケールを示そうとしたと考えられる。考古遺物を描いた図には出土した位置や寸法等の書き込みも見られる。大正4年(1915)の『岩手日報』に佐藤は「満洲探検回想録」(注28)を連載、鳥居龍蔵による中国東方地方および朝鮮半島での調査に同行した際の旅程や様子を回想録として記した。大正8年(1919)、佐藤は和田英作とともに植物図譜『群芳図譜』を刊行している〔図4〕。この『群芳図譜』は、洋画家として活躍した和田英作と佐藤の合著作であり、多色刷りの植物図版には植物の詳細な説明文が伴う。『群芳図譜』第1集第5編(大正8年10月)に序を寄せた佐藤の師である洋画家の松岡壽は、「図譜は解剖図までも添へて精緻周密、植物学の基礎の上に立つものなれども、よく標本画の弊を脱し、高尚なる趣味を伝ふるに努め、真に学術の真と芸術の趣味を兼ぬ」とし、学術性と芸術性を兼ね備えた図譜である点を強調している。本来植物研究上の必要から作り出される植物図譜を、美術家が中心となって美麗な図譜に仕上げた『群芳図譜』は、学問と美術の融合を目指した試みであったと言えるかもしれない。昭和3年(1928)以降、佐藤は宮内庁生物学研究室の嘱託として勤務し、植物写生に従事した。平成元年(1989)に佐藤醇吉顕彰会が発行した『岩手洋画の草分 佐藤醇吉遺作展』に載る「白キジ」(藤沢町保呂羽神社所有)の絵の裏書きには、生物学研究室で鳥類の写生に従事したことや、これまでの絵画研究を踏まえて白雉を描いたことが書き記されている(注29)。佐藤は郷里である岩手の名勝地や平泉旧市街等の― 42 ―― 42 ―
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