鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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いた雑誌『白樺』を読まない者はなかったと思う(注3)」と山名も書いているように、当時多くの若者たちがこの記事でビアズリーを知ることとなった。『白樺』は文芸誌でありながら、西洋美術の紹介も積極的に行っており、当時まだ目にする機会の少なかった海外の名画や、同時代に活躍していた芸術家たちの作品を多くの作品画像とともに紹介記事を掲載していた。当時、西洋美術を誌面で紹介した雑誌は『方寸』(1907年創刊)や『スバル』(1909年創刊)など、いくつか存在していたが、『白樺』はとくに西洋美術の紹介に力を入れており、芸術家を志す多くの若者たちがこの雑誌の読者であった(注4)。創刊当初より、雑誌の使命のひとつにもなっており、「資金に余裕はないものの、なるべく口絵を充実させたい」「なるべく西洋で有名な画家のカットを紹介したい」という記述がみられる(注5)。明治43年(1910)6月に発行された『白樺』第1巻第3号に、柳による「オーブレー・ビアーズレ」と題された記事と、ビアズリーの作品5点が掲載された。続いて翌年、1911年(明治44)9月に発行された『白樺』第2巻第9号でも、ビアズリーの特集が組まれた。作品10点が掲載され、「オーブレー・ビアーズレに就て」と題する柳の記事では、ビアズリーの生涯と彼の作品についての詳細な解説がなされている。この二度にわたる特集号で掲載された作品は全部で15点あり、代表作『サロメ』の挿絵のみに留まらず、初期から晩年に至るまでのビアズリーの画風の変遷までもが分かるような記事となっている。前述のとおり、山名も『白樺』で初めてビアズリーの作品を見た文学青年のひとりであった。『白樺』自体は古本で見たと述べており、当時は黒と白で描き出される妖しげな画風に引き付けられたが、しだいに印象はうすれて忘れてしまっていたという(注6)。故郷和歌山の中学を卒業した山名は、その後大阪の赤松麟作洋画研究所に入所し、絵画の勉強を始めるが、その研究所でビアズリーと衝撃的な再会を果たす。「ある日、研究所に行くと4、5人の連中が、頭をくっつけるようにして、なにか本でも見ているらしかった。ぼくは、みんなの頭のあいだからのぞきこんだ。そして見た一冊の本。それは『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(オーブリー・ビアズリー後期作品集)』〔John Lane Co., London 1901. Revised ed. 1920〕であった(注7)。」山名は、研究所の仲間たちとこの画集の頁をめくるうちに「ぼくの胸は、興奮と恐れに似たもので痛くなった。この本は見てはならない本だ。自分というものが死んで― 502 ―― 502 ―

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