しまう。夢二のときと同じように、またしても、ビアズリーの分身になるにちがいない(注8)」と恐怖にも似た感情を覚えたという。「夢二のとき」というのは、絵を描くことが好きだった山名少年が、竹久夢二に憧れるあまりペンのタッチ、女性の顔のセンチメンタルな表情、さらには夢二のサインまでそっくりに写して描き「まるで、自分が夢二の分身であるかのように(注9)」描いた絵を綴じて画集を作った気になっていた、中学時代の自身を回想した言葉である。2.雑誌『女性』概要山六郎と山名文夫の二人が中心となって挿絵を手がけたプラトン社の雑誌『女性』は、大正11年(1922)に創刊された月刊婦人雑誌で、大阪に本社を構える中山太陽堂(現クラブコスメチック)の化粧品のPR誌であった。もともと、大阪で出版されていた地方婦人雑誌である『女学生画報』という雑誌を中山太陽堂初代社長・中山太一が出版権を買収し、『女性』を創刊した(注10)。中山太陽堂の子会社であるプラトン文具株式会社がその発行を請け負うことになり、『女性』出版部門としてプラトン社と名付けられた(注11)。『女性』は、中山太陽堂による自社製品PRのために創刊された雑誌であったが、その内容は当時の流行作家をそろえた女性のための文芸誌としての役割が大きく、谷崎潤一郎や永井荷風、与謝野晶子など名だたる作家・歌人が執筆陣にその名を連ねている(注12)。内容もさることながら、流麗なイラストレーションで装飾された誌面の美しさも特徴のひとつで、19世紀フランスで流行したファッション・プレートを模したイラストレーションが表紙を飾り、誌面には飾り枠や装飾模様などのカットや、多数の挿絵が掲載されている。山六郎が中山太陽堂に入社したのは、大正8年(1919)のことである。京都工芸高等学校(現京都工芸繊維大学)図案科を卒業後、中山太陽堂の化粧品の広告やパッケージデザインを担当していた。大正11年(1922)、『女性』創刊にあたり、同社の出版部門であったプラトン社に出向した山は、題字のレタリングから表紙、扉絵、カットなど全てを手掛けた。山に1年遅れてプラトン社に入社した山名によると、「私が彼を知ったときは、すでにビアズレイのスタイルをマスターしていて、ペンの線の美しさは見事なものであった(注13)」と述べている。しかしながら、山がビアズリーの技法を自身の作品に取り入れるようになったいきさつは定かではない(注14)。前述のとおり、ビアズリーの作品は明治末期に初めて『白樺』誌上で紹介された。その後東京、京都で開催― 503 ―― 503 ―
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