日本語訳「ドイツと日本の人形劇の転換点 美術家の関与を中心に」まず始めに私が中央美術史研究所で調査を行う動機をお話ししたいと思います。私の最終的な目標は、日本における近現代人形劇形成史を世界的な人形劇史の文脈の中に位置づけ描き出すことですが、中でも1906年から1934年までミュンヘンで活動していた「ミュンヘン美術家人形劇場」が、日本の近現代人形劇の形成に深くかかわっていたと私は考えています。この劇場への強い関心が動機となって、私はコロナ禍の困難にもかかわらずミュンヘンまでやってきました(更に今はロシア上空飛行不可となり、東京への復路も不確かですが)。さて、そもそも日本の人形劇とは何でしょう。これまで日本の人形劇の研究は、ある一つの劇団に大きく焦点を当ててきました。「日本のシェイクスピア」と呼ばれる脚本家・近松門左衛門の登場で18世紀に創作のピークを迎えた文楽は、確かに日本を代表する人形劇であり、1体の人形を3人で操るという独特のスタイルで世界的に見ても際立っています。現在でも、文楽は日本に5つしかない国立劇場の一つを座付きの劇場としています。文楽は日本の他の人形劇と比べて実践面のみならず学術面でも際だって注目され、脚本形成の歴史、テキスト批評、劇団史、政治・社会分析など、詳細な研究が行われています。ロラン・バルトのように、文楽を人形、人形遣い、語り手という3つのエクリチュールを同時に読まなければならない断片性をもった特殊な演劇であると考え、哲学的な分析も行う研究者もいます。とはいえ、日本に存在した人形劇は、文楽だけではありません。日本の人形劇は文楽が誕生する以前から存在し、また遥かに多様です。ヨーロッパと同じように各都市に人形劇団が存在し、20世紀初頭からその多様性はさらに増していきました。日本の人形劇の風景は、20世紀初頭に決定的に変化したといえます。脚本、舞台美術、演技法、さらにはどんな人が舞台に立ち、観客が何を求めるかまで、大きく多様化しました。当時は西洋演劇の流入により、俳優劇にも大きな変化が生じていました。しかし人形劇に生じた変化は、俳優劇のそれと密接に関係しながらも、まったく同じではありません。というのも、20世紀初頭の日本で新しい人形劇を創り始めたのは、舞台芸術家ではなく、主に美術家だったからです。日本の人形劇の変化は、ヨーロッパ各地での芸術的人形劇の出現と並行しています。そこには明確な影響関係が見てとれます。― 528 ―― 528 ―
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