鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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私が見た限り、ヨーロッパ人形劇に関する国内最初の雑誌記事は、1905年に書かれた匿名記事です。この記事の内容は、人形劇は古代からあり、現在でもドイツ、イギリス、フランス、イタリア、スペインにも人形劇が見られているという大雑把なものです。ですがこれを皮切りに、日本では1900年代から1920年代にかけてヨーロッパの人形劇に関する紹介記事が多く登場します。その中で最も頻繁に取り上げられたのが、1906年にミュンヘンで設立されたMarionettentheater Münchner Künstler(ミュンヘン芸術家人形劇場)でした。 この人形劇団について、少し説明したいと思います。その名が示すとおり、これは多くのミュンヘンの芸術家が参加した人形劇団でした。創設者のパウル・ブランは1873年にシュレジエンのOelsに生まれ、俳優や演出家を志す青年でした。1897年、24歳の時にミュンヘンに移り、画家・イラストレーターのオラフ・ガルブランソン(1873-1958)を初めとする著名な風刺雑誌『ジンプリツィシムス』の寄稿者たちと親交を深め、さらに1901年にはキュンストラーハウスで行われたアーノルト・ベックリンの追悼集会の指揮を任されれるほど、当時のミュンヘン芸術界と深く関わりました。1903年には幼いころからの人形劇への憧れをもとに劇団設立の準備を始め、1906年にニュルンベルクで初演し、1910年にはミュンヘンに劇場を建設しました。当時、常設の人形劇場はヨーロッパ中を見わたしても珍しいものでした。この劇場はテレージエンヴィーゼに建設され、設計はパウル・ルートヴィヒ・トロースト(1878-1934)が担当しました。トローストは、ハウス・デア・クンストやナチス党本部(つまり、現在私たちがいる中央美術史研究所)を建設したヒトラーお気に入りの建築家です。レナーテ・フィラプティッシュ・アショーバーは、1975年に提出した博士論文の中で「ブラン夫人の言によれば(1973年8月4日)、ミュンヘン芸術家人形劇場をよく訪れていた彼は、アウスシュテルングスパークにあったその劇場建物に非常に感心し、建築家について尋ね、すぐさまナチス党本部の設計を依頼したそうだ」と書いています。ブラン夫人の言葉を裏付ける証拠はありませんが、確かにこの人形劇場の外見は、人形劇を芸術として高めようとする気概に満ちています。この向上心がヒトラーの拡大主義を惹きつけたのだとしたら、人形劇にとっては残念なことでした。なおブラン自身はユダヤ人の家庭に生まれたため、ミュンヘン芸術家人形劇場は1934年にロンドンへの避難を余儀なくされました。ブランは、カスペルやファウストのような昔ながらの人形劇の主題ではなく、シュニッツラーやメーテルリンクといった現代作家の脚本を用いたことで、ドイツ人形劇を刷新しました。さらにその人形は、画家、彫刻家、イラストレーターなど、ミュン― 529 ―― 529 ―

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