鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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ヘンの最も重要な芸術家たちによって手がけられました。オラフ・ガルブランソンのほか、画家・彫刻家のイグナティウス・タシュナー(1871-1913)、彫刻家・美術アカデミー教授のヨーゼフ・ヴァッカーレ(1880-1959)などが代表的な人物です。また、美術アカデミー教授でミュンヘン分離派第二代代表のユリウス・ディーツ(1870-1957)など、『ユーゲント』誌から9名もの美術家が参加しました。いずれも当時のミュンヘンを代表する美術家でしたが、人形劇の仕事についてはこれまであまり研究されていません。では、どのようにしてこの人形劇場が日本でも知られるようになったのでしょうか。この劇場で1908年に上演されたシュニッツラーの『猛者』(Der tapfere Cassian)が出発点となりました。1910年、ある日本の文芸誌にこの公演の人形を写した写真が掲載されたのです。当時日本に逗留していたとあるドイツ人が所有していた印刷物の切り抜きを転載したため、画像はとても不鮮明です。雑誌に掲載された写真のキャプションには、「『デル、タップフェレ、カシアン』をイグナチウス、タシュネル一座[ミュンヘン芸術家人形劇場]が操人形芝居でやった時の写真である。……写真は吾々の友人のフリッツ、ルンプが新聞か雑誌から切り抜いて、……」とあります。その2年後、この写真を真似て、日本で『猛者』が上演されました。その公演の批評(『演劇評論』第二巻1912年5月)には、「『新思潮』という雑誌に、傀儡の『猛者』の写真が出ていた」、「幕あきのマルチンの衣装が、如何にも傀儡らしくて、直にそれと気が付く位であった」と書かれています。これほどファジーな写真をもとに舞台衣装を作ったのですから、ミュンヘンの人形がよほど気に入ったのに違いありません。この頃、日本政府は、生活や文化のあらゆる分野で西洋化政策を進めていました。そのひとつが1877年頃から始まった「演劇改良」です。これは、伝統的な俳優劇である歌舞伎を、より現実的で合理的な筋書きに変えて近代化しようという政府主導の運動でした。日本の伝統演劇はすぐには変わりませんでしたが、改良は続けられ、1900年代に入るとイプセンやチェーホフなどヨーロッパの劇作家の翻訳台本や西洋風の衣装・舞台美術を用いた2つの新しい劇団が東京で設立されました。そのひとつが、1912年に『猛者』を演じた劇団でした。日本の演劇改良運動は歌舞伎俳優を巻き込んで行われましたが、伝統的な人形劇である文楽はこの運動から取り残されてしまいました。文楽は1905年頃から急速に観客を減らしていました。1927年、文学者の白鳥正宗が文楽座を訪れ、次のように書いています。「久振りで入って見ると、想像していた如く観客は極めて少かった。……そういふ名人も死絶えて、彼らの後継者たる傑れたる新人は、時代に取残された古めか― 530 ―― 530 ―

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