鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
542/549

しい藝術の社会には現われそうに思われない。」しかしこの時、ヨーロッパの芸術的人形劇の知識が日本にもたらされ、初めて日本人は「人形劇」も近代芸術の一つであることを認識し始めました。ミュンヘン芸術家人形劇場は、日本の俳優演劇に取り入れられただけでなく、日本で多くの新しい西洋人形劇団を誕生させることになります。ここで、ヨーロッパの芸術的人形劇の知識が入る以前の19世紀末の日本の写真をご覧頂きます。1894年、アイルランドの人形劇団「ダアク座」が来日しました。彼らは東京で人気を博し話題を呼びましたが、その会場は小さな動物園を併設する遊園地「花やしき」であり、半ば見世物のような扱いを受けていました。日本の他の人形遣いたちは、「動物のウワマエをはねるようなことはしたくない」と言って、同じ場所での上演を拒否していました。当時の珍しいものをすぐに舞台に持ってくることで有名な五代目菊五郎が、同じく珍奇な見世物として「ダアク座」を歌舞伎の舞台で模倣しました。このように、19世紀末には外国の人形劇は見世物に過ぎなかったのですが、20世紀に入ると、一転して芸術家たちが尊敬し模倣すべきものへと変貌したのです。 1913年4月には日本の演劇雑誌『芝居』に、9月には文芸雑誌『早稲田文学』に、ミュンヘン芸術家人形劇団についての詳細な紹介記事が掲載されました。いずれも、ドイツの雑誌『Die Kunst』(1912年7月10日号)を翻訳紹介したものです。著者は『ミュンヘンの芸術と芸術家』(1908年)などの著作がある美術評論家のゲオルク・ヤコブ・ヴォルフで、ミュンヘン芸術家人形劇場の豪華な内装や、タシュナーとヴァッカーレによる人形を紹介しています。これをきっかけに同劇場はヨーロッパ有数の芸術的人形劇場として日本の演劇・文芸雑誌等で繰り返し取り上げられるようになり、1920年代以降に日本で誕生した多くの非伝統的な人形劇団の模範となりました。この頃から、日本における人形デザインの概念は明らかに変化してきたと言えるでしょう。一般に演劇の三要素といえば、役者、観客、劇場空間ですが、人形劇では、役者、人形、観客、劇場空間というように、さらに人形が加わります。四大要素の一つである以上、人形のデザインは最初から重視されるべきだと思われるでしょうが、文楽は18世紀以降、細かい動きを表現できるように人形を操作しやすくしたり、目や眉を動かすなどの仕掛けの改良はあったものの、芸術性という点ではあまり変わりませんでした。日本の伝統的な文楽人形劇の慣習を打ち破ったのは、舞台芸術家ではなく美術家の人形劇への関心でした。1923年、日本で初めて、非伝統的な人形劇『アグラヴェーヌとセリセット』が上演されました。脚本はメーテルリンク、人形デザインと人形遣いは当時洋画家だった伊― 531 ―― 531 ―

元のページ  ../index.html#542

このブックを見る