藤喜作が担当しました。彼は後に、日本で最も重要な舞台美術家になります。ある演劇雑誌では、この作品を高尚な演劇として賞賛しています。1924年には、有名な画家の永瀬義郎と恩地孝四郎が「テアトル・マリオネット」を結成してパリ公演まで行いましたし、1925年には表現主義の重要な画家である村山知義が人形を使った前衛的な『劇場の三科』を上演しました。ちなみにこの上演については、近くのレーンバッハハウスの企画展 “Gruppendynamik. Der blaue Reiter und Kollektiv der Moderne” でちょうど展示されています。また1926年には、ベルリンのラインハルト演劇学校で学んだ舞台美術家の千田是也が、ベルリン・ダダのゲオルゲ・グロスの政治風刺画をモデルにした人形を制作し上演しています。このように、日本の人形劇は美術家の参加によって伝統から脱却し、より多様な表現が可能な芸術ジャンルとして活性化したと言えるでしょう。以上のような日本における新しい人形劇の試みは、ミュンヘン芸術家人形劇場をはじめとした、ヨーロッパの「芸術的人形劇」の影響を受けたものです。芸術的人形劇の出現は、ミュンヘンだけの特殊な事例ではありません。世紀末からヨーロッパで始まった大きな流れがあり、日本のモダニズム人形劇もその流れに呼応したものだったと言えます。例えば1887年のパリのキャバレー「シャ・ノワール」でのオンブル・シノワーズ(中国風影絵)、1896年のフランス・ダダの先駆者アルフレッド・ジャリによる『ユビュ王』、1923年のオスカー・シュレンマーによる芸術的形象(Kunstfigur)、1931年のリヒャルト・テシュナーによる人形鏡(Figurenspiegel)、パウル・クレーの手人形、イタリアの未来派フォルトゥナード・デペーロの人形劇が数え入れられるでしょう。また同時期にはエドワード・ゴードン・クレイグやバーナード・ショーらによる人形劇の理論的再評価も行われていました。これらの理論家が人形劇に見出した芸術的可能性は多岐にわたります。人形劇の理論家として最も有名なクレイグは、俳優とは対照的な、感情や利己心を持たない受動性に人形の長所を見出しました。一方シュレンマーは、人形を抽象的な人間として捉え、人形が「芸術家が美を表象するための忠実な媒体」であると考えました。ミュンヘン芸術家人形劇場を見たゲオルク・フックスは、人形劇には「演劇の脱文学化と、見ることの歓びの再発見」の力があると考えました。さて、このように雄弁な批評家たちに比べ、これまで取り上げてきたような人形劇に関与した美術家たち自身は、人形劇観についてまとまって語っておらず、彼らが人形劇をどのように捉えていたのかについてはまだよく分かっていません。当時現れた― 532 ―― 532 ―
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