鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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を用いて挿絵を描いている。挿絵画家としてのキャリアをスタートさせるにあたり、ビアズリーに学びながらも、ステンドグラス作家としてのバックグラウンドに融合させたといえる。こうしたクラークに認められる特徴は、実のところ日本におけるビアズリー追随者の一人である蕗谷虹児にも認められる。まずは蕗谷とビアズリーの影響関係から明らかにしていく。3.蕗谷虹児に見られるビアズリーの影響蕗谷虹児(1898-1979)は新潟県に生まれ、日本画家の尾竹竹坡に絵を学んだ。病の父を訪ねて樺太に渡って5年ほど旅絵師をしたのち上京し、竹久夢二の紹介により『少女画報』や『令女界』といった少女向け雑誌の挿絵画家として仕事を得るようになる。首が長く細身で優美な美人画風の女性を描いているが、その女性は長いまつげを持ち、瞳が大きく日本人離れした顔立ちが特徴である。挿絵の仕事を始めるのは1920年の『少女画報』からであるがビアズリーの影響が顕著に見られるのは、1924年から刊行された「虹児画譜」シリーズにおいてである。それまで銅版画風にハッチングのような線と網掛けによる明暗表現が見られたが、細い輪郭線と黒いベタ塗りの描法が主流になる。「虹児画譜」第2集の『悲しき微笑』に収録された「可愛ゆい時計」〔図8〕の挿絵では、ビアズリーの『髪盗み』の《恋文》〔図9〕の構図と『髪盗み』の口絵に使われた花のメダイヨンを明らかに借用している。蕗谷はビアズリーについて「虹児画譜」第3集の『銀砂の汀』でその名を挙げ、自身が未熟な挿絵画家であるのに、自分の模倣者がいることを嘆き、それならばビアズリーやフォーゲラーを真似するほうがよいといったことを述べている(注12)。ここでビアズリーとフォーゲラーが挙げられていることから、蕗谷は両者が紹介されていた『白樺』によってビアズリーを知ったことが推測される。上笙一郎によるインタビューにおいても「丸ペンを使ったのは、一時ビアズレーに凝ったときがあって、その影響」であると話している(注13)。しかし同時に「わたしの挿絵は、世間では竹久夢二の系統に属するものと考えているようですし、たしかにわたしは少年時代から夢二の絵が好きでしたが、しかしわたしは、自分の絵が直接夢二につながっているとは思いません。わたしが一番影響を受けたのは浮世絵の美人画だし、夢二も同じだったでしょうから、浮世絵を通してなら、わたしは夢二につながっていると思いますがね」とも話す(注14)。浮世絵を通して夢二とつながっていると蕗谷が話すように、ビアズリーも共通の師― 50 ―― 50 ―

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