であった。夢二も同様にビアズリーの『サロメ』から線描を学び「繊毛の画法」を取り入れた(注15)。「竹久夢二の系統」と考えられたのは、浮世絵の美人画の抒情性やビアズリーの線に学んだという共通性によるところが大きいのかもしれない。いずれにせよ、蕗谷虹児におけるビアズリーの影響というときに指摘できるのは、構図の借用、線描の模倣といった様式上の一致であるといえよう。蕗谷自身がビアズリーに私淑したことを語っているが、蕗谷とビアズリーを直接に結び付ける批評は多くは見られない。日本におけるビアズリー受容研究の嚆矢である関川左木夫により、その関係が指摘されるが「夢二の抒情性を正統に引継いだ画家が蕗谷虹児」(注16)として、「夢二がビアズレイから継承した、繊細婉雅な線による夢幻のうちの抒情性を、虹児はより意識的に強調した」、「夢二よりもより忠実にビアズレイの画法を消化し、より積極的に復元している」(注17)と夢二との比較において影響の深さが強調されている。しかし、関川は「虹児の作品に対するビアズレイの反映は、作品の生涯にわたって、昭和四十六年大門出版の「虹児の画集」の随所に発見することができる」(注18)としているが、これは厳密にいうとビアズリーの反映ではない。クラークを通じてビアズリーを受容したか、クラークをビアズリーと間違えて受容した可能性が指摘できるのである。4.蕗谷虹児におけるクラーク『アンデルセン童話』の影響1924年の「虹児画譜」においてビアズリーとの関連を指摘したが、同時期にまたクラークの影響も指摘することができる。1925年より『主婦之友』において連載が始まった自叙伝的小説「氷柱の金魚」は白黒の繊細な線描を特徴とする。線描をビアズリーに学んだというのであれば、繊細な曲線が認められる挿絵はビアズリーの影響といえようが、明らかに同種の別人であるクラークを参照していると思われるのである。第9巻第6号の挿絵〔図10〕では、降りしきる雪の中にフード付きのコートをまとった人物が立っている。コートの毛羽立ちにはビアズリーの「繊毛」のようなものが認められ、黒地の布のひだを表現する白い点線は、ビアズリーが『サヴォイ』刊行のころより用いたものである。しかし、第9巻第7号の挿絵〔図11〕では同じく黒地に白い点線を用いていても、その使い方がビアズリーのものとは異なっており、クラークの「マッチ売りの少女」のものに近い。クラークとビアズリーの比較において指摘したように、クラークは黒地に外光を透過させる白い面を作ることで対象を描き出す〔図12〕。蕗谷の挿絵にも同様の特徴があらわれている。また地面に描かれた大輪の花々はクラークの「おやゆび姫」〔図13〕の枠装飾に代表されるように、クラー― 51 ―― 51 ―
元のページ ../index.html#60