クが好んで用いた装飾である。筆者が調査した限りでは蕗谷によるクラークに関する言及は確認できていないが、関川の言葉を借りるならばクラークの反映は、作品の生涯にわたって発見することができる。1946年から大日本雄弁会講談社(以下、講談社)から刊行された「世界名作童話」シリーズおよび、戦後の1950年から刊行された「世界名作童話全集」において、蕗谷はアンデルセン童話やアラビアンナイトの挿絵を描いている。神林淳子により同シリーズにおいて、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの《マーメード》が『湖水の鐘』表紙(1958年)および『人魚のお姫さま』(1953年)に翻案されていることが指摘されている(注19)。これと同様にクラークの挿絵を翻案しているものがあり、蕗谷は本シリーズの制作にあたって、イギリス美術を紹介した画集や挿絵本を参照したと推測される。1951年刊行の講談社の『白鳥の王子』の表紙絵〔図14〕を見ると、姫がハンモックに横たわって白鳥に運ばれている場面が採用されているが、クラークの『アンデルセン童話』の「野の白鳥」〔図15〕に全く同じ構図の挿絵がある。1956年の『講談社の絵本 人魚姫』においても、構図は異なるが人魚姫が魔女と向き合い魔法の薬を得る場面はモティーフの配置が類似する〔図16、17〕。蕗谷がアンデルセン童話を主題に仕事を始めた段階で、他の挿絵画家による同主題の挿絵を学んだ可能性は高いが、「虹児画譜」の頃よりクラークの借用が見られるため、早い段階でクラークに出会っていたと思われる。白黒の挿絵だった「虹児画譜」ではクラークの『アンデルセン童話』の白黒の挿絵に学び、カラーになった講談社の絵本で再び『アンデルセン童話』のカラーの挿絵に学んだのではないだろうか。蕗谷の初期の挿絵には確かにビアズリーの影響と見られる線の表現が認められるが、それはクラークもビアズリーから取り入れた表現でもある。蕗谷の挿絵をビアズリーおよびクラークとそれぞれに比較検討することで、ビアズリーの線表現は取り入れながらもクラークの挿絵に親和性を見出していたであろうことが推測される。蕗谷はクラークを認識することなく、クラークを介してビアズリーの影響を受けていた可能性について今後検討される必要があるだろう。おわりにクラークが日本に輸入された時期は定かではないが、ビアズリーの追随者とされる資生堂の矢部季は『香炎華』(注20)の口絵にクラークの『アンデルセン童話』から「人魚姫」の挿絵をそのまま描きうつしており、1920年代にはクラークが挿絵画家たちに知られるところとなっていたと考えられる。この時点でもまたクラークはビアズ― 52 ―― 52 ―
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