鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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注⑴ 2020年に英国テート・ギャラリーで開催されたビアズリー回顧展の最後の章は、“After Beardsley”と題してビアズリーの影響を受けた画家、挿絵画家のほかオマージュ作品を紹介した。Stephen Calloway and Caroline Corbeau-parsons. ■■■■■■■■■■■■■■■■. London: Tate Britain, 2020.⑵ Kenneth Clark. ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■. John Murray, 1978, p. 12.⑶ 『白樺』第1巻第3号、1910年、『白樺』第2巻第9号、1911年。⑷ 式場隆三郎『ビアズレイの生涯と藝術』建設社、1948年、p. 49。⑸ ビアズリー以降の挿絵画家を紹介した展覧会としては、注⑴のCalloway(2020)、『ビアズリーと世紀末展』東京他、伊勢丹美術館他、1997年;『ビアズリーと日本』栃木他、宇都宮美術館他、2015リーと間違って受容されていた可能性が高い。クラークが挿絵画家ハリー・クラークとしてその存在を認識されるのは、恐らくエドガー・アラン・ポーの挿絵画家として紹介されるのを待たねばならない(注21)。ビアズリーの影響関係を調査する過程で、その追随者の中からクラークの影響を受けたであろう蕗谷の存在が明らかになった。ビアズリーは『白樺』に紹介されたことや戯曲としての『サロメ』の輸入から、その名が広く知られるところとなった。クラークは恐らく輸入洋書が流通したと思われるが、その名を紹介されることはなかった。ビアズリーの描法を借用したクラークがビアズリーと間違われて受容された可能性は高く、蕗谷の事例から、ビアズリーの受容研究が複雑な様相を呈していることが浮き彫りとなった。ビアズリー的要素として、ビアズリーが生み出した様々な線描表現をそれと認めることができるが、各挿絵画家におけるその用い方や個々の独自性については更なる検討が必要であろう。本稿では、ビアズリーとクラークの比較からクラークがビアズリーから取り入れた表現と、クラーク自身の独自性の所在をまず明らかにした。そのクラークの独自性は、ビアズリーの影響を受けていたはずの蕗谷に親和性が見いだされ、また影響関係が明らかになった。ビアズリーが後続の挿絵画家に及ぼした影響について、その大きさが変わることはないが、詳細に比較することによりそれぞれの挿絵画家の評価は見直される必要がある。本調査はこれまでのビアズリー受容の一例を再検討したに過ぎないが、まだ調査がなされていない挿絵画家の再評価を課題として、今後の調査を進めたい。付記本稿の執筆にあたり、蕗谷虹児ご遺族および蕗谷虹児記念館には多大なご協力をいただきました。ここに感謝の意を表します。― 53 ―― 53 ―

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