鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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かった。それから防長に遊び京都に帰るまで、羅漢寺の荘厳に努め、多くの篆額類を残したという(注4)。中野三敏氏によれば宝暦9年秋、羅漢寺の無学和尚は佚山に羅漢寺二十四景の題詠を集めることを求め、佚山は「いまだ二十四境を見ぬ人のためにその図を作り示して都下の知己交友に題詠を乞うた」という(注5)。「豊前国羅漢寺之真景」はその図を元にしたものか、画中には二十四境が図示され地図的な機能もあり、近代まで版を重ねて売られたものと思しい。宝暦12年の年記がある池大雅「比叡山真景図」(練馬区立美術館)は画中に真景の記述はないものの、箱の蓋表に自筆の可能性の高い題「平安池無名比叡山眞景畫幷題言」があり(注6)、地名が添えられ、地図的な要素とみることができる。真景、真景図の例として著名な池大雅「浅間山真景図」も画中には真景と記されない。箱の木口の旧蔵者のラベルに「大雅堂画/朝熊岳真景」とある(注7)。白山・立山・富士山を共に旅した高芙蓉「菡萏居箚記」には「浅間嶽真景」の記述があり、「題浅間嶽真景」として「浅間山真景図」の自賛が記される(注8)。自賛からA1群に準じるものである。以上の例は現在「真景図」と呼ばれるものの、画中や箱、同時代の記述は「真景」である。画中に「真景」とある場合、現在の作品名では「真景図」とする場合が多いが、画中に「真景図」とあることは稀である(注9)。寛政9年(1797)の谷文晁「那智真景図」は画中に「真景図」とある、早期の珍しい例である。「真景図」の語は用いられていたらしく、例えば鈴木芙蓉の養子となった鳴門は文化8年(1808)9月、徳島藩の藩命により、「真景図御用」を描くため、奥州に旅に出ている(注10)。江戸時代後期から明治期にかけて多くの浮世絵版画の題に表れる「真景」もそのほとんどが「**真景図」ではなく「**真景」であった(注11)。明治10年(1877)の野沢定吉「東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図」(郵政博物館他)は「真景之図」であることを明記する。明治20年11月発行の二代歌川芳盛「吾妻新橋金龍山真景及ヒ木造富士山縦覧場総而浅草繁栄之全図」(江戸東京博物館他)も真景の全図と理解できる。絵図では安政5年改正松川半山「月瀬嵩尾山長引梅渓真景之図」(国会図書館他)に「真景之図」の表記があった。明治期の絵図においては「**真景」に加えて「**真景全図」の表記がみられ、特に松島について「松島真景全図」と称するものが多い(注12)。明治21年9月発行の「松島真景全図」から昭和3年(1928)4月発行の「松島真景全図」まで確認される(注13)。明治27年発行「塩竈松嶋真景図」の画面は真景全図との顕著な差異は認められない(注14)。― 59 ―― 59 ―

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