鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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松島と並ぶ日本三景の一つ厳島を表した絵図に明治28年発行の「安藝國嚴島實地眞景之圖」、「安藝國嚴島眞景之圖」、明治30年発行の「日本三景之一嚴島實地真景之圖」、明治37年発行の「日本三景之一嚴島神社真景全圖」がある。「真景之図」、「真景全図」という表記は明治10年代以降一般化したものと予想する。日本三景については石版画でも真景を題に含む図が刊行された。明治33年4月印刷「高野山真景大全図並廿一景」は「真景大全図」と題する。「真景大全図」の表記は珍しく、今のところ高野山以外の例を知らない。「真景図」と題する絵図としては、早く文政12年改正「安房国鋸山日本禅寺真景図」(東京大学総合図書館石本コレクション他)があるが、明治期後半には明治39年発行「宇都宮市真景図」(那須野が原博物館)、明治42年12月発行「前橋市真景図」(前橋市文学館)、明治43年1月発行「大和長谷寺真景図」(奈良大仏前絵図屋筒井家刻成、奈良大学総合研究所)が確認できる(注15)。画中に「真景」とある遅い例として、昭和7年の小村雪岱「東京新風景 隅田公園真景」がある。本作は資生堂が景品として配ったと思しき団扇で画中に題が記されている。江戸時代中期から昭和期の長きにわたって画中に真景と題される例があった。内国勧業博覧会出品目録における表記は作者の意図でないとしても少なくとも開催時の呼称ではあり、B1群とみる。明治10年の第一回内国勧業博覧会には新潟県の山内忠蔵が「画帖 真景」を出品し、三重県の項に桜井金次郎「真景図」の出品がある(注16)。明治14年第二回内国勧業博覧会には東京府で山口一が「平皿陶 円形玉川真景彫刻」、山内帯岳が「額絵絹寛政七年三月五日下総国葛飾郡小金原獣狩ノ真景極彩色密画」、亀井至一が「油画額布日光山東照宮陽明門ノ真景」を出品していた(注17)。加えて新潟県の五十嵐麗景が「軸物絹樽潭真景青緑山水」を出品している(注18)。亀井至一「日光山東照宮陽明門ノ真景」の例は油彩画も時には真景と呼ばれたことを示す。高橋由一「国府台真景」(東京国立博物館)の呼称は所蔵館の台帳によるもので、作品自体に記述があるわけではない(注19)。明治16年6月に千葉県令に宛てて献納が上申された高橋由一「北総匝瑳郡野手邑内裏塚真景」油絵扁額があり、その題について、由一本人の意向はともかく、同時代にそう呼ばれていたことは明らかである(注20)。亀井至一の弟亀井竹二郎の油彩画を元に画家の死後、明治24年から25年にかけて石版画「懐古東海道五十三驛真景」が刊行されるが、その広告の文面から油彩画も真景と称されていたと理解できる(注21)。― 60 ―― 60 ―

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