2 真景の諸相 行事の真景、産業の真景真景は視覚的、文化的な名所を題材とすることが多いが、真景の用法はそれにとどまらない。文化元年(1804)の谷文晁「対嶽楼宴集当日真景図」(「栗山堂餞筵詩画巻」のうち、広島県立歴史博物館蔵管茶山関係資料)は江戸滞在中の管茶山が柴野粟山邸で催した詩筵を富士山の眺望を含めて描く。「甲子七月十八日対嶽楼宴集当日真景如此文晁」とあり、真景として描かれたA1群である。行事の人物図を真景と題するのは珍しいが、画中には富士山?を描く人物、富士山を眺める人物(茶山?)が見え、名所との結びつきもある。文政10年(1827)成立の高力猿猴庵著小田切春江筆『御鍬祭真景図略』(名古屋市博物館蔵)は題箋に「真景」とある。「日置里出屋敷之真景」と題した図もあり、「東枇杷島御鍬祭之図真」の図には「真景写」の朱文長方印を写したものが描かれている。描き出されるのは空間の広がりを持った景色ではあるが、行事の真景ともいえる。市街全体を描き画中に「真景図」と明記した、明治39年発行「宇都宮市真景図」、明治42年12月発行「前橋市真景図」を前に挙げた。この2点は銅版画で刊行されたもので、「前橋市真景図」は翌年の連合共進会開催に合わせた商工案内図的な要素も指摘されている(注22)。市街全体を描く真景図として早い例が船越長善「明治六年札幌市街之真景」(北海道大学植物園)〔図1〕で、発展しつつある明治初期の札幌を地図的に描く(注23)。船越長善(1830~81)は開拓使に出仕し、地図製作にかかわるが、それ以前は盛岡の絵師川口月嶺に師事し、盛岡藩に出仕して藩主らの絵の相手を務め、蝦夷地の風景を写生したこともあった(注24)。長善の師月嶺は四条派の鈴木南嶺の門人であり、長善は画系としては四条派に連なるが、「深山の図」(岩手県立博物館)の図版からは文人画(南画)風の画風もレパートリーにあったことがうかがえる。開拓使出仕以前の慶応3年(1867)「北郡田名部山水真景画譜」(北海道大学博物館、藤田悟楼氏旧蔵)は全体を長善自身が「真景」と題したかどうかは不明だが、真景と題した図を2図含み、下北半島各地を描く(注25)。歴史地理学の立場から山田志乃布氏が指摘するように、「明治六年札幌市街之真景」は、開拓使の札幌市街の都市計画の眼差しを示し、産業の真景といえる(注26)。しかしその一方絹地に描かれ、現在では少し色褪せてはいるが、その色彩は伝統的な青緑山水の範疇にあり、遠山には米法山水の米点らしきものも見え、山の量感の表現も倣黄公望と画中にあればそう理解できるようなもので、文人画とのつながりを残している。また、建設途中と思われる開拓使本庁舎や、まだ原野である町割の外を霞で隠す手法は、札幌市街が平安京― 61 ―― 61 ―
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