鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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のような条坊制をとっていることもあって、近世の洛中洛外図をも想起させる。明治5年から22年の間に作られたと想定できる王欽古「見沼代用水重要構造図」(全6図 埼玉県立歴史と民俗の博物館、以下埼玉県博本)、「瓦葺懸渡井官費営繕之真景」(上尾市教育委員会、以下上尾市本)〔図2〕も文人画とのつながりを残す産業の真景である(注27)。埼玉県博本は見沼代用水の構造上の重要な三か所についてそれぞれ地上と地中、水中の機構を描いたもので、うち地上を描いた三図に「武陽埼玉郡見沼代用水路足立郡上瓦葺村地内懸渡井通船之真景」、「武陽埼玉郡見沼代用水水路伏越樋上平野村地内柴山村之真景」、「武陽埼玉郡見沼代用水路上大崎村関枠懸水之真景」の題がある。上尾市本は同じ場所を描いた埼玉県博本の図とほぼ同じ図様で「見沼代用水路武陽足立郡上瓦葺村地内懸渡井官費営繕之真景」と画中に題される。見沼代用水は江戸時代に幕府が整備したもので、春から夏は農業用水、秋から冬は通船の水路として用いられたが、明治になって用水の機能維持のために必要な経費負担が問題となっていた。見沼代用水の受益者で官費営繕を望む発注者が想定できる(注28)。画面は淡いながらも青緑山水的な色調で、地表には点苔が付され、堤や地面の隆起には皴法を用い、近景と中景、遠景を霞で区切り、用水の機構部以外は文人画の山水画の範疇にある。児玉果亭「石脳油産地之真景」(宮内庁三の丸尚蔵館)〔図3、4、5〕は明治4年に日本初の石油会社を設立した石坂周蔵が献上した作品である(注29)。三幅の画中に「伺去真光寺之真景」「海老江及菅谷之真景」「茂菅及鑪之真景」と題される。鑪村・茂菅村(長野県)は商業採掘には至らなかったとみられ、伺去真光寺村(長野県)の浅川油田は明治9年に倒産し、海老江村・菅ケ谷新田(静岡県)の相良油田は明治6年から採掘を行う。石坂は明治14年には石油事業から撤退するので、本作品は時期を広く考えても明治4年から14年に描かれたものだろう。石油採掘の櫓が描かれる以外は全く水墨の文人画の山水画でこれも産業の真景である。以上の船越長善、王欽古、児玉果亭の作品は制作時期が近い。王欽古、児玉果亭がこのような産業の真景を描いたのは、発注者が文人画を愛好する層であったからと考えられるが、産業の真景はさらに広がりを見せる。明治20年代から30年代にかけて、関東地方、長野、静岡の地域の様々な場所(邸宅、寺社、店舗、工場、学校、官衙、名所など)を描き、名称、地名などをローマ字で入れた「博覧絵」、「博覧図」と呼ばれる銅版画が製作され、予約販売で銅版画集として刊行された(注30)。美術として、よりも当時の状況を視覚的に示す歴史資料として言及されることが多い作品群だが、多くの図が真景と題されている。例えばウェブサ― 62 ―― 62 ―

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