⑦ 阿弥陀浄土図の景観と構図の成立に関する研究研 究 者:富山大学 芸術文化学部 准教授 三 宮 千 佳はじめに阿弥陀浄土図(西方浄土変、阿弥陀浄土変相図)は、中国では南北朝時代の6世紀に始まる。初唐・7世紀に形式が成熟し、敦煌莫高窟の壁画を中心に数多くの作例が残されている。従来の研究では、各モチーフを浄土経典(『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)や儀軌と対照し、所依する経典を比定する分類学、あるいはモチーフの図像的意義を明らかにする研究が行われてきた。しかし、最初の阿弥陀浄土図の構図が成立する過程、つまり南北朝時代以来、構図やモチーフの配置がどのような経緯で決定され成熟したか、あるいは構図の変遷についてはあまり論じられていない。私はかつてこのことについて、初期の浄土図である成都万仏寺出土の碑像「二菩薩立像」裏面の「浄土図」をもとに検討したが(注1)、ごく少数の作例による試論に留まっていた。そこで本研究では特に、浄土図の「構図の成立過程と各景観モチーフ配置」について検討した。1 阿弥陀浄土図の景観に関する従来の研究先行研究については、拙稿でも以前詳述したが(注2)、浄土変相図の図像学研究は、松本榮一氏の『敦煌画の研究』においてはじまった。松本氏は、初唐以後の阿弥陀浄土変相図を検討し、『観無量寿経』の影響の有無により「阿弥陀浄土変相」と「観経変相」にわけ、基本的な分類を行った。その後、多くの研究者が現在に至るまで図像と浄土経典の記述を比較し図像解釈を試みる研究を続けてきた。私は、このような浄土経典による図像解釈とは異なり、浄土変相図の景観の構成、つまり各モチーフを画家が景観としてどのような意図をもって配置したかを問題としてきた。以下は以前拙稿でも述べたが(注3)、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』における阿弥陀浄土の表現では、宝池、宮殿楼閣、宝樹などが具体的な形状を示しているわけではなく、またそれぞれの要素がどのように有機的・空間的につながっているかを読み取ることは困難である。また、画家が浄土を視覚化するには、経典の記述を具体化する現実の景観、景物が必要であると考え、その現実の景観、景物とは中国の「苑(苑)」であると論じた。「苑」とは、皇帝専用の庭園施設、いわゆる園林である。周代にはじまり、漢代になると上林苑など多くの苑が整備された。いずれも巨大な池を中心とし、池の中には― 69 ―― 69 ―
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