中島や築山があり、周囲には楼閣が並び、果樹や草木が植えられ、禽獣も飼われていた。苑では皇帝をはじめとする貴族たちが遊興し、また時には軍事訓練も行われ、皇帝に関する様々な行事に利用される庭園空間であったという。苑は、東晋の支頓によると現世の浄土とも捉えられていたようで(注4)、まさに現実離れした世界が繰り広げられる場所であった。私は以前、この皇帝の苑が阿弥陀浄土図の景観のモデルであると指摘した。ところで四川・成都万仏寺址から出土した「浄土図」〔図1〕は、制作年代が6世紀半ばで最初期の浄土図の一つとみられているが、その景観は、同じく6世紀半ばの麦積山石窟の127号窟右壁龕上の西方浄土変(西魏、540年代)や南響堂山石窟前壁の浄土変(北斉)とは異なる。その異なる部分とは、麦積山石窟や南響堂山石窟の浄土図が仏菩薩を中心にあらわされ、奥行き表現もあまりなく平面的(二次元的)で、周囲の楼閣と仏菩薩の大きさの比率も考慮されていないのに対し、成都万仏寺址出土の「浄土図」では、仏菩薩・比丘、聖衆と周囲の樹木や楼閣の景観が現実に近い比率で遠近感を持って描かれているという点である。〔図1〕は、成都万仏寺址出土「浄土図」について、中心点Xをもとに、特徴的な図像に線を引いたものである(注5)。すると、本図の宝池の幅はすべて同じで、如来像は最上部から4分の1の点Y上に足元が位置し、楼閣も宝池と平行にあらわされている。また樹木と楼閣は、仏菩薩・比丘、聖衆の大きさと比べて現実的な高さ、幅を持っている。さらに中台・宝池・楼閣はすべてこの正中線上の点Yに集約するような平行線上にあらわされ、奥行きが表現されており、画家がこの浄土の光景を少し小高い丘の上から俯瞰するかのように全体を描いている。これは他の浄土図とは違い中心点Xをもとに全体が規則性をもって構成されている様子がうかがえる。つまり当時の画家は、浄土の光景という想像上の景観を絵画として成立させるために、画面を分割することを体得していったと考えられる。そこで本研究では、阿弥陀浄土図をはじめとする浄土図ではどのように画面を分割し、構図が整えられたかについて検討した。2 浄土図の構図分析の方法絵画において、画面の構成(モチーフの配置)の基準となるのは、分割線であり、水平線(横線)と垂直線(縦線)またその組み合わせである(注6)。画面における水平線と垂直線の各々2等分線の交わる点が中心点となるが、すべての絵画が必ずしも中心線と中心点を構図の基準としているわけではない。画面の分割線は3等分線の― 70 ―― 70 ―
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