によると、初期は景観の範囲も狭く平面的(二次元的)であった。しかし、初唐の阿弥陀浄土変相図では、より広範囲な浄土の景観について、画面の中心を意識し、また画面を2・4・8等分に区画し対角線や中心点からの放射線を求めて多数のモチーフを配置して遠近も表現し、風景画・山水画のように画面に自然な立体感(三次元)が出てきたことがわかる。これは、当時の画家が経験的に体得したものと思われる。単純ではあるが誰にでも理解できる規則性により画面を安定させ、見る者に浄土の光景があたかも現前にあるかのように感じさせるのである。前述のように私は、阿弥陀浄土図は中国の皇帝の庭園である「苑」をモデルとして作図されたと考えている。また中国では仏教が広まる以前から、神仙思想の中で、人々は仙界や楽園に観念的に憧れていた(注7)。「華胥氏の国」は黄帝が夢で遊んだという理想郷であり、紀元前6世紀の『詩経』には「楽土」という言葉があらわれ、東晋の陶淵明は「桃花源記」の中でいわゆる桃源郷を描いた。こうした人々の楽園を希求する心が、皇帝の苑をはじめとする中国庭園(園林)の造営につながったのであろう。すると、新興の仏教思想の中の仏の理想郷である「浄土」は、すでに神仙の楽園として造営されていた庭園(園林)が、観想の際のよりどころとなることは十分に考えられる(注8)。仏教の側から考えると、阿弥陀浄土は、すでにあった神仙思想の理想郷との共通点も多く、それにより造営された庭園は、まさに浄土の視覚化の手本としてふさわしいものと考えられたのではないか。苑全体を周辺のやや高い場所から観察して全体を把握すれば、伝統的な山水画のように視点を決めて自然景観として描くことができる。横長の画面に、手前のものは画面下段に、中程のところにあるものは中段に、天空にあるものは上段に配置することは容易に思いつく。苑のような庭園の具体的な景観モデルがあるからこそ、初期(6世紀)の成都万仏寺址の作例では、景観の中に如来・菩薩・聖衆がいることを、画面の分割線を頼りに各モチーフの配置を整理して構成し、奥行き表現のある山水画のようにあらわすことができた。初唐の敦煌莫高窟の第220窟の阿弥陀浄土変相図では、中心を阿弥陀如来として中心点をより明確に意識し、対角線や中心点からの放射線を、立体感や遠近表現のために利用するだけではなく、飛天や菩薩を配置して中心の阿弥陀如来に求心力が集まる工夫をしている。画家が分割線の役割を認識し、効果的に演出するために作画に用いていることがうかがえ、浄土図の構成の基礎が確立したといえよう。以後は分割線が― 75 ―― 75 ―
元のページ ../index.html#84