鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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ロスへの献身的な愛情を示すこのエピソードは、正確にはアルテミシア2世(在位 前353/352-前350)によるものだが、中世からルネサンスにかけて、彼女は息子リュグダミスの摂政を務めた同名のアルテミシア1世(前6世紀後半-前5世紀前半)と重ね合わされ、両者はしばしば統合的な一人の女性として叙述された。ウエルの著作においても、この二人のアルテミシアの事績が織り交ぜられている。ウエルはさらに、散文による『王妃アルテミシアの物語』の主要なエピソードを一連のソネットに翻案した。ソネットの裏面には原則として挿絵素描が付され、これがのちのタピスリーの下絵となる。素描群の一部は消失しているが、フランス国立図書館に39点、ルーヴル美術館に14点、計53点が現存している(注5)。素描群の大半はアントワーヌ・カロン(1521-1599)の手によるもので、1560年代から1570年代初頭にかけて制作された。素描群は当初よりタピスリーとして織り上げることを見越して制作されたが、カトリーヌ・ド・メディシスの生前に製織された形跡はない。残された素描群はアンリ4世に引き継がれ、国王付きタピスリー画家アンリ・ルランベール(1540/1550頃-1608)が1600年頃からカルトンと追加素描の制作にあたった(注6)。第一エディションの少なくとも一部は、1606年9月14日の王太子とその姉妹の洗礼式の際に、フォンテーヌブロー宮殿に飾られた(注7)。タピスリーの主題は全部で46点確認されているが、基本的には、各エディションは依頼主の意向に応じて8~10の主題から構成されていた。先行研究では、タピスリーにおける主要な登場人物の解釈が見解の一致をみていない。カトリーヌの時代は、寡婦・摂政であるアルテミシアの境遇がカトリーヌと明確に付合しており、それゆえ、息子のリュグダミスの姿が当時の国王シャルル9世に重ねられたことは疑いない。しかし、アンリ4世の時代ではどうだろうか。1610年のアンリ4世の暗殺後、カトリーヌと同じく摂政となったマリー・ド・メディシスがアルテミシアと重ねられたことは想像に難くないが、タピスリーが最初に発注・製織された1600年頃は、アンリ4世の生前であった。これまでの研究において、アデルソンやドニは、アンリ4世が幼い頃から宮廷でカトリーヌから教育を受けていた点に着目し、アルテミシアの息子リュグダミスの姿にアンリ4世を重ねている(注8)。一方オークレールは、宗教戦争を終結させたアンリ4世の功績が、王国を勝利へと導いたアルテミシアの資質と重なることから、アンリ4世がアルテミシアと重ねられた可能性を示唆している(注9)。しかしながら、当時すでに50歳を目前としていたアンリ4世を幼いリュグダミスに投影することも、― 80 ―― 80 ―

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