おける彼の役割および重要性の検証を試みているのである。本研究では、作品のみの考察だけでは見えてこない、彼の人物像や歴史的事象との因果関係にも焦点を当て、彼の創作活動の原点について多面的な分析を行う。そしてこれまで検討されてこなかった彼の工芸概念と表現との関連性について考察し、讃岐漆芸における素材と技術革新に関する新たな視点を提示したいと考えている。江戸時代後期より技法による伝承を礎として発展してきた讃岐漆芸の作家たちは、個人の意思と感覚をより重要視することで、時代に即した作品制作を行い、素材、技術、意匠の革新を追求した新たな表現を展開するに至った背景が存在している。そうした要因の分析により、香川県の漆芸界全体の作風の変遷に関するより詳細な比較・分析が可能となり、さらには日本の漆芸産地全体の歴史及び今日の工芸の在り方も含めた再考ができるのである。1.玉楮象谷亡き後の讃岐漆芸本章では、讃岐漆芸史における彫漆表現の発展を考察するにあたり、音丸耕堂が登場する以前、明治期の讃岐漆芸に焦点を当てる。江戸時代後期に玉楮象谷が創始したこの技術は元々、彼の亡き後は一族を中心に一貫して継承され、古典技術と意匠の伝承に重きを置いた作品制作が行われていた。しかし明治33年(1900)に開催されたパリ万国博覧会を大きな契機として、創造性を重視した日本工芸へと路線変更が図られる事態となり、それまで技術の伝承及び技巧のみを追求しながらも高い評価を受けてきた讃岐漆芸が一変して旧態依然と捉えられ、美術工芸の近代化に立ち遅れたという事実が確認できる。内国勧業博覧会に着目すると、創始者である玉楮象谷が明治2年(1869)に亡くなり、象谷亡き後に跡を継いだ彼の一族たちの実情を知ることができる。明治14年(1881)開催の第2回博覧会では、象谷の弟である藤川黒斎(1807-1869)の他、象谷の三男である玉楮雪堂(1836-1899)と末子の玉楮藤榭(1836-1899)が有功賞牌二等を受賞したが、同博覧会報告書には、「皆法ヲ古ニ取リ敢テ一ノ新意ヲ着セス故ニ其觀自カラ悪シカラサルノミ」(注1)という記述がある。3人の受賞作品は全て、一貫して旧来の技術を伝承し、新しい要素を加えていない結果、作品自体も過去のものと比較して悪くはなっていないという評価を受けた。さらに明治28年(1895)開催の第4回博覧会においても、同博覧会審査報告には、「能ク先人ノ髹法ヲ守リ専ラ堅牢ヲ主ト爲スヲ以テ毎ニ聲價ヲ墜ササリシ」(注2)という記述が確認でき、讃岐漆芸の名声が維持されている大きな要因となっていたの―93――93―
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