鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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は、象谷の製法を一貫して継承している点にあるとされた。しかし、明治36年(1903)開催の第5回博覧会において、讃岐漆芸の評価は一変することになる。同博覧会では、「外觀悪シカラサレトモ材料ノ撰擇ヨリ塗方及仕上ニ至ルマテ従來ト異ナル所ナク意匠模様ノ如キモ陳腐ナルモノ多ク全躰ノ形勢稍退歩ヲ示セリ」(注3)と、それまで讃岐漆芸の祖である玉楮象谷の製法の伝承が高く評価されてきたにもかかわらず、同博覧会では特にこの点が痛烈に批判され、同地の漆芸全体が退化しているとの評価を受けたのであった。森仁史氏の研究で既に指摘されているように、こうした背景には明治33年(1900)に開催されたパリ万国博覧会を大きな契機として、伝承重視の技巧主義的な工芸からの脱却が意識され始めた事実が非常に大きく影響していた(注4)。第5回内国勧業博覧会の3年前に開催されたパリ万国博覧会では、「新しい芸術」を意味するアール・ヌーヴォーが西洋において大流行しており、日本工芸は「一般ニ製作ノ緻密精巧ナルコトハ之ヲ認ムルカ如シ」(注5)も、「意匠ノ研究ヲ缺キ徒ニ舊套ニ甘スルノ弊アル」(注6)という、もはや時代遅れであるという評価が下されたのである。当時の日本は、この西洋の美術動向及び概念を重要な指針としたことで、第5回内国勧業博覧会における評価基準の変更が余儀なくされた。地方の讃岐漆芸も例外ではなく、新たな革新が迫られたのである。しかし明治末期には、象谷の子である蔵黒(1831-1880)、拳石(1833-1882)、雪堂、藤榭たちは亡くなり、甥の藤川新造(1839-1915)と米造(1849-1914)も晩年を迎えていた。彼らが試みた実用漆器として産業化することは、制作日数が長くかかる上に大量生産も困難であったため、下地等の作業で手間を省いた粗製濫造を招き、讃岐漆芸の失墜に拍車を掛けた。玉楮象谷の死後30年が過ぎ、象谷及び彼の一族たちによって継承されてきた、言わば技法による伝承を礎とした従来の在り方からの転換と、個性的で芸術性の高い新たな讃岐漆芸を創り出すための突破口が求められたのである。2.音丸耕堂の作家像音丸耕堂は、「学而不思則罔。思而不学則殆。=学びて思わざれば則ち罔し。思いて学ばざれば則ち殆し。」を信念としていた(注7)。これは「論語」為政第二(15)によるもので、人は学んでから自分で体験し、考えることが大切である、また、自分なりに考えて学ぶことをしなければ、独り合点になり、独善的になってしまうという、という意味である(注8)。この言葉の意味を深く理解し、自らの信条としていた彼は、「工芸作家も芸術家である以上、創作がなければならない。其の上に大切なものは、―94――94―

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