鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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技術で有る。技術は工芸品を作る道具で有る。是が私の信念です。技術を高めるには、より多く体験する事です」(注9)と語っている。筆者は、音丸耕堂から直接教えを受けた漆芸家の一人である北岡省三氏に話を聞くことが出来た(注10)。北岡氏によると、音丸は絵画、書、茶道、和歌、漢学、俳句等にも非常に精通した風流人であったという。少しでも物事を知り、教養を身につけようと日々努力を怠らず、歳を重ねようともその意欲が衰えることはなかった。彼は幼い頃に貧しく、尋常小学校にも働きながら通っており、12歳から徒弟制度によって訓練されたため、明治31年(1898)に設立された香川県工芸学校(現香川県立高松工芸高等学校)では学ばなかった。これは同時代の多くの讃岐漆芸の作家たちと最も大きく異なる点である。しかし、新しい知識や技術を絶えず身につけようとする彼の旺盛な創作意欲と姿勢こそが、従来の枠にとらわれない、彼独自で多彩な彫漆を生み出していったと北岡氏は語っている。こうしたことから、音丸は多くの芸術や伝統文化から刺激を受け、自由な発想を生み出すための体系的な思考を鍛えるために日々邁進していたという彼の作家像を垣間見ることができる。明治末期から創作活動を開始した音丸は、電動ロクロの普及により木製素地が量産化され、木彫を色漆で仕上げる讃岐彫が県内漆器産業の主流となっていた当時の香川県の職人たちについて、下記のように語っている。 「こんな仕事で、なにが芸術家だ。象谷さんの真似ばかり。それも良いものの真似ならばともかく、象谷さんの仕事では、木彫は高いものではない。それを忠実に模倣して、象谷の刀法に適っているとか、いないとか権威のようにいいおった。それを聞いて抵抗を感じた。象谷さんにはもっと良いものがあると考えた。堆朱の他に存清、蒟醤などの手法を取り入れ、自分のデザインというものを作っている」(注11)当初は木彫を学んでいた音丸は、玉楮象谷の芸術性は木彫にあるのではなく、漆芸の表現にあると感じていた。その後、彼は本格的に彫漆に転じて、独学で研究を開始した。彼は彫漆における研ぎや彫り等を含めた数々の制作過程の中で、最も難しい部分は下絵、デザインと答えており(注12)、立体物である漆芸作品の器物にモチーフを表す際には下絵無く直接筆で描いていた。この背景には、象谷以来の古典的意匠や他人が描いた下図ではなく、自分自身で意匠を創り出すことができるように、大正9年(1920)頃から、近代日本画の先駆者で戦前の京都画壇を代表する竹内栖鳳(1864―95――95―

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