-1942)の門下である穴吹香邨に学び、輪郭線なしですぐに色彩で描き始める「付立」と呼ばれる技法の習得があった(注13)。彼は生涯にわたって、常にスケッチブックを持ち歩き、自然の暦や季節感を肌で感じながら動植物などの素描を行った〔図1〕。彼が毎年1か月程過ごす帰省先の庭には1年中季節を彩る花が咲いていた他、毎朝魚市場や魚屋へ行き、気に入った魚介類を購入して、絵を描くためのモチーフとしていたという〔図2〕。そして墨と顔彩絵具、スケッチブック、色紙を用意して、構成を十分に練り、下絵無く直接筆で濃淡を付けて描いていた(注14)。このようにして培われてきた彼の卓越した絵画力は、作品の意匠にも存分に生かされていると筆者は考察している。一般的には紙などを使用して行われる転写を行わず、彼は器物に直接絵付けを施し、天と側面にモチーフを違和感なく配する技術と表現力を持っていた〔図3〕。作品を前後左右どちらからも見られるように細心の注意が払われている構図の妙は、彼の創造性が見事に発揮されているのである。音丸が第5回新文展で特選を受賞した《彫漆月之花手箱》〔図4〕は、まさに彼の巧みな彫りの技術と意匠の研究の両側面が効果的に発揮された作品であると言えよう。簡略化されながらも立体感を出した夕顔の花、つぼみ、葉、蔓が作品全体に巻き付くように表現されており、当時の作品評には、「影絵の夕顔を高く刻出したところに効果的な手法も見える(注15)」「花を彫漆によって浮び上らせ見事な立体感を出した佳作である(注16)」「氏の作品の紋様には、生きた力がある(注17)」と、彫漆の彫りの技術を生かした彼の斬新なデザイン感覚が高く評価されたのであった。木彫にはじまり讃岐彫の学びを経て、地道な努力と創作に邁進していった結果、彼独自の表現を展開していったのである。また音丸耕堂は、創作活動の拠点を香川県から東京に移した当時数少ない讃岐漆芸の作家であり、この点において同時代に地元香川県で活動していた磯井如真とは別の方向性から、讃岐漆芸の芸術性の高さを広く世に知らしめたと言える。音丸が上京を決意した理由は、当時の香川県では帝展及び新文展に入選を重ねると一角の扱いをされていたが、こうした状態に安住していては成長ができないと考えたからである(注18)。昭和12年(1937)に上京した頃の東京では彫漆が珍しく、はじめは苦労したが、彼はレーキ顔料を用いた中間色や鮮明な色漆を駆使し、豊富な色彩表現を生かした作品を発表していった。上京翌年の昭和13年(1938)開催の第2回新文展で出品した《彫漆昆虫譜色紙筥》〔図5〕は、近代彫漆の幕開けと位置付けられる作品である。レーキ顔料は変色や褪色の可能性が指摘されていたが、音丸はこの新素材をいち早く自作品に取り入れた結果、従来の朱、黒、黄、緑、褐色のわずか5色に限定されていた漆―96――96―
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