注⑴農商務省博覧会掛編『第二回内国勧業博覧会報告書第二区』農商務省博覧会掛、1883年、38意工夫を加えた技法とそれらを生かした色彩感覚を取り入れていった音丸は、表現力と芸術性を高めることにより、讃岐漆芸の水準の高さを全国的に証明していった。結果として、彫漆が多様性のある表現へと昇華されたのである。結論音丸耕堂は、伝統技術を単なる「技法」ではなく「表現」として捉え、高い作家意識を自覚して、独自の彫漆表現を創り出そうと試みていた。木彫から始まった彼の仕事は、独学で芸術的感覚を養いながら、漆芸技法とその意匠に新しさを追求していった。新素材の登場で従来の漆の色彩の幅が大きく広がったことによって、色漆の塗り重ねに創意工夫を凝らした画期的な彫漆作品を次々と発表していっただけではなく、彫りの技術も、当初の讃岐彫を基にしたものから、後年はその表現を存分に生かしながら音丸独自の彫りの技法を追求し続けていったのである。彼は東京に拠点を移した後も積極的に後進の指導に当たり、自らの技術や知識、経験を彼らに還元することで、同郷の漆芸家たちを先導していった。それは香川県の漆芸界にとって、玉楮象谷の手法に倣って作品制作を行ってきた、いわゆる伝承によって形作られてきた讃岐漆芸から、素材、技術、意匠に革新がもたらされた今日に通じる新たな讃岐漆芸が展開されるに至った大きな要因の一つとなった。故に、音丸耕堂に関する継続的な研究は、讃岐漆芸の近代化に至るための作家性の芽生えと、それに伴う素材・技術の革新という観点からも、非常に重要と結論付けられるのである。頁⑵第四回内国勧業博覧会事務局編『第四回(明治廿八年)内国勧業博覧会審査報告第六冊』第四回内国勧業博覧会事務局、1896年、313頁⑶第五回内国勧業博覧会事務局編『第五回内国勧業博覧会審査報告第五部巻之六』第五回内国勧業博覧会事務局、1904年、36頁⑷森仁史「時代とともに、時代を越えて─主張と記録─」『叢書・近代日本のデザイン9論文選明治篇』 ゆまに書房、2007年、329-335頁⑸農商務省編『千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局報告下』、農商務省、1902年、491頁⑹前掲注⑸、497頁⑺音丸耕堂「回顧展を開いて思うこと」『音丸耕堂回顧展』香川県文化会館、1984年、4頁⑻前掲注⑺、4頁⑼前掲注⑺、4頁⑽筆者は令和4年8月15日、音丸耕堂から直接教えを受けた漆芸家の北岡省三氏から聞き取り調―98――98―
元のページ ../index.html#108