Ⅰ.「美術に関する調査研究の助成」研究報告① 高島北海の皴法認識─日本留学した中国人画家傅抱石の理解を参照に─研 究 者:上海大学上海美術学院 専任講師 陳 藝 婕本稿は日本留学した中国人画家傅抱石(1904年~1965年)の理解を参照しながら、高島北海(1850年~1931年)の皴法に対する認識を分析するものである。皴法とは、毛筆の特性を活かして、山、石、樹などの景物の立体感や質感を写実的に表現する絵画技法である。唐代後期から五代にかけ、水墨画の興隆や山水画の発展と共に中国で現れ始めた。その後、実際の作品や画譜によって日本に伝来し、日本人画家たちに継承された。高島北海は画論『写山要訣』(1903年)の中で、皴法を山水写生の具体的な技法として紹介している。しかし、中国の傅抱石も、当時の日本画壇の評論家も、高島北海の皴法認識には疑問を唱えている。彼らの疑問はどこまで有効な議論であったのだろうか。本論文に関わる高島北海や傅抱石は、日本の学界ではあまり重要視されていない人物なので、皴法の議論に進む前に関連情報を紹介する。高島北海、本名は得三、明治大正年間に活躍した日本人画家、地質学・林学の専門家、官僚である。1872年から97年(明治30年)まで、高島は工部省や農商務省などに勤めた。1902年、52歳の頃、彼は「北海」という雅号で、中央画壇で活躍し始めた。1907年、幹事として文部省美術展覧会の創立に携わり、1908年から17年までは審査員を担当した。日本国内外の博覧会・展覧会で金銀銅賞を頻繁に受賞し、旧派画家の代表者として高い画壇地位を保持した。大正7年(1918年)文展審査員の職を辞したのを契機に、高島は次第に中央画壇から遠ざかるようになり、1931年、病気により逝去した。大正8年(1919年)の絵画番付〔図1〕から見られるように、高島北海は一時的に、横山大観(1868年~1958年)や竹内栖鳳(1864年~1942年)など名家に並んで画壇の頂点に位置づけられたことがある。しかし、傅抱石によると、1933年の時点で、『写山要訣』は絶版になり、高島北海の画論の伝承と発展も日本では途絶えていた(注1)。―1――1―1.2022年度助成
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