1877年の講演「装飾芸術」(のちに「小さな芸術」に改題)を皮切りに、工芸家としての実践と社会の諸問題をめぐる思索に基づいた一連の理論を示し、装飾を含む「小芸術」こそが、人々の生活や社会に直結する芸術の母体であると主張した。モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に共鳴し、世紀末から20世紀初頭にかけて西ヨーロッパを中心に応用芸術の復興と装飾のムーヴメントが起こり、その影響は「純粋芸術」にも及ぶ。とりわけ、天野知香が指摘するように20世紀の抽象への動向は、内省的な思索の帰結ではなく、西洋の美術における無名の「他者」─具体的には女性や非西洋─からの影響があってこそ発したものであった(注4)。一方、アドルフ・ロースやル・コルビュジエのような人々が表層的な装飾を糾弾し、キュビスムは明確に装飾と区別されることで、芸術の「純粋性」が追求された。この純化のプロセスの中で、手工芸や装飾的な表現はふたたび周縁化され、「大芸術」の下位概念=領域としての「小芸術」というパラダイムが確立されることになる。ここで重要なことは、ロースが「装飾と犯罪」(1908年)で「近代人たるものに装飾は必要ない」と断言しながらも、「装飾したいという衝動こそ造形芸術の起源」と認めていることである。さらに、絨毯を編むペルシャの人たち、鉤針編み物をするスロヴァキアの女性たちそして靴職人のような人々から「装飾の喜び」をとりあげるべきではないと認めている(注5)。このような相克にこそ、モダニズムにおける「装飾」の立ち位置の原点があると言えよう。こうした議論は、第二次世界大戦時のバウハウス関係者の亡命や、60年代以降のクラフト・ブームによってアメリカにも受け継がれていた一方、純粋芸術の領域では、「装飾」という言葉は禁忌的な扱いになっていく。20世紀中葉のアメリカ美術においてそれを決定的なものにしたのは、美術批評家クレメント・グリーンバーグである。グリーンバーグは、「装飾」を芸術における美学的価値の一つとして認識していた。つまり、パターンや装飾が、抽象絵画の成り立ちに隣接していることを理解していた。だからこそ装飾を近代絵画に憑きまとう「亡霊」として位置づけ、「装飾的なるものをそれ自体に反して用いるやり方」を見出すことがモダニズム絵画の様式的使命と結論づけた(注6)。グリーンバーグの影響が依然として強かった時代に、その還元主義的なドグマに息苦しさを感じ始めたアーティストや批評家たちが現れた。その中でP&Dのアーティストたちは、ロースが言うところの「造形芸術の起源」としての装飾の「衝動」や「喜び」に立ち返ったと言えるだろう。このようなP&Dの志向を理論的に牽引したのが美術批評家のエイミー・ゴール―104――104―
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