ディンである。ゴールディンは、西洋の自己完結的な表現とは対極にある一枚のペルシャ絨毯に、他のどんな芸術作品にも劣らない感動を与える可能性を見出した。そして常に「いま・ここ」ではない状態に開かれているパターンやグリッドと、新しく生まれつつある芸術の兆候とを突き合わせた(注7)。西洋と非西洋、大芸術と小芸術という二項対立を超えて、研究対象に「芸術意思」を見出そうという態度は、アロイス・リーグルを筆頭とする先の美術史家たちの系譜に連なる。ゴールディンの新しさは、あくまでアーティストたちの伴走者として芸術生産の現場に立ち会いながら、その理論を概念としてだけでなく実践的に継承していたことにある。各々装飾やパターンを探究していたアーティストたちが、ゴールディンを介して1974年頃、ニューヨークのソーホーで知己を得たことで、P&Dのプラットフォームは培われた。P&Dの創立メンバーの一人であったロバート・クシュナーは述べている。そこで共有されたインスピレーション・ソースに皆が魅了され、強い足場と歴史的感覚を与えてくれた(注8)この「歴史的な感覚」の一つの起源を、クシュナーの作品で辿ってみたい。クシュナーの初期作品の多くにはテキスタイルが使われている。カフタンや着物を想起させる《青色のひだ飾り》(1975)〔図1〕や《ラピスの首飾り》(1985)〔図2〕、緞帳のように左右対称にドレープが寄せられた《真珠色の幕の向こうのヴィジョン》(1975)〔図3〕これらの作品では、自作の生地とレディメイドのテキスタイルが同等に扱われている。要素間に序列はなく、人物のモティーフでさえ、装飾とほぼ融合している。様式化された彼らの姿は、時にアフリカやオセアニアの仮面に、時にアール・デコのファッション・プレートに描かれた女性のイメージに重なる。鑑賞者の視点は、一点に垂直的に引きつけられることなく、その都度新しい動きを生成する。本人も認めるように、クシュナーの作品においてマティスの影響は明らかである。しかし、このような装飾への志向を決定づけたのは、20世紀初頭にフランスにおけるアール・デコ様式の生成を牽引し、他領域とも影響を与え合ったクチュリエたちだった。とりわけクシュナーの家族が実際にドレスを所有していたというポール・ポワレのデザインと、ポワレがウィーン工房から着想を得てパリで立ち上げたアトリエ「マルティーヌ」の多面的な活動に影響を受けたという。ポワレが女性たちをコルセットから解放した最初のデザイナーだったことは言うまでもない。ラウル・デュフィのよ―105――105―
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