結局ファイン・アートの領域に装飾や工芸の要素を部分的に利用しているだけではないかという矛盾に直面する(注12)。そして自身の手で作品の素材であるタイルを制作するようになった。コズロフが新しい形態を模索する中で、彫刻とオブジェの間のような3次元の作品が生まれ〔図7〕、インスタレーションとなり〔図8〕、壁の外の世界、つまりパブリック・アートへと向かった〔図9、10〕。パブリック・アートは建築空間の中に置かれることから、先天的に「装飾」との境界に接していることは、アール・デコやナビ派、メキシコ壁画運動などの先例が実証している。だからこそ、ゴールディンがいみじくも「美学的なゲットー」(注13)と喩えたように、「自律性」を重んじる純粋芸術の世界で、美術批評の対象になることはほとんどなかった。70年代以降、このアメリカのパブリック・アートに社会を巻き込む形で変化が訪れる。「アートのための%(Percent for Art)」条例によって、各地の都市計画に積極的に採用されるようになったパブリック・アートの主流は、後に「プロップ・アート」と揶揄される抽象彫刻から、場所との関係性を重視する「サイト・スペシフィック」な作品に移行する。さらに80年代に入ると、空間的特性にのみ焦点を当てるのではなく、その場所に生きる人々やコミュニティの歴史的な文脈や文化的特色を反映しようという「イシュー・スペシフィック」な意識が芽生える。市民の方も、自分たちのコミュニティに置かれる芸術作品に対して声を持ち始めた時代だった(注14)。建築事務所に勤務した経験を持つジョードンも、パブリック・アートを多く手掛けた一人である〔図11〕。彼女は建築に対して後から作品を設置するという従来の方法ではなく、計画当初からプロセスに介入し、建築家や職人や造園家たちと協働してプロジェクトを行っている。コズロフとジョードンいずれも、そこに生きる人々に眼を向け、美術館やギャラリーに展示するための作品と同等の素材や精度、設置後のメンテナンスに心を砕いた。こうした作品は、文字通り「装飾」として機能しており、同時代のリチャード・セラのようなアーティストの作品と比べれば控えめで匿名的に見える。ゴールディンは次のような言葉を残している。私たちの美術史は偉大なアーティストたちの歴史である─しかし、小さきアーティストたちも、集団的なかたちの表現にささやかな貢献をしながら、同じように真の創造性を体現している(注15)―108――108―
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