高島北海の美術史的な再評価は、アール・ヌーヴォーを契機に、海外から始まった。日本人学者の著作に見られる記述から見て、20世紀60年代まで、高島北海は日本の美術史では忘れられた存在だったというべきであろう(注2)。高島自身の絵画を扱う先行研究は比較的少ない。高島没後の個人展覧会は、主に下関市立美術館で開催されている。高島研究の第一人者というべき井土誠は、下関市立美術館の元館長であり、美術館が所蔵する高島の遺族からの寄贈品を中心に、高島北海の作品紹介や画歴研究をしている。画業に比べ、高島の林学・地質学専門家としての一面がより高く評価されている(注3)。まとめると、高島北海の画家としての価値はまだ十分認識されているとはいえない。更に高島と中国との関連については、まだほとんど認識されていないと思われる。例えば、高島北海の画論『写山要訣』に対する研究は少なく、傅抱石が『写山要訣』を中国語に訳したこともこれまで日本の関連研究では言及されていない。『写山要訣』は、地質科学から着手し、各種皴法を地質構造と一つずつ対応させて、日本の風景を例に、詳しく説明したものである。筆者は、彼の理論は「地質学画論」と呼ぶべきものと考える。その地質学画論の中で、「皴法」は中心的な概念であった。それに対して、傅抱石が指摘したのも、まさしく「皴法」に関わる問題であった。傅抱石は、高島の皴法理解を高く評価する一方、高島が皴法の説明のために用いた図版には正しくないと主張したのである。傅抱石は20世紀の中国画壇及び美術史研究に深い影響を及ぼした著名な画家である。彼は来日留学生として1932年9月から1935年6月まで日本に滞在し、帝国美術学校(今の武蔵野美術大学)で東洋画論を専攻した。1933年、傅抱石は高島北海の画論を断片的に読み、これに魅了されたため、『写山要訣』を入手した(注4)。同書の傅抱石による文語体中国語の全訳文は、1936年の春に完成した(注5)。その後1955年になって、文語体を改めて白話体に書き直し、1957年に、中国語訳本は『写山要法』という新しいタイトルで、中国で出版された。この訳本は大体『写山要訣』の内容を忠実に沿ったものだったが、細部において修正が施されている。皴法に関する一部の図版が入れ替わったのもその一部である。『写山要法』の「訳者序」において、傅抱石はこう述べた:「この本によって、中国山水画の皴法の科学的な根拠が見つかり、その応用も広げられるだろう…」(注6)。傅抱石が関心を寄せたのはいわゆる皴法問題であり、特に高島の「地質学画論」が皴法に科学的な根拠を与え、皴法の応用を広げた点に傅抱石は着目している。この角度―2――2―
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