鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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⑪ 橋本関雪の中国観に関する一考察─橋本関雪スケッチ資料群と《木蘭》を中心として─研 究 者:福岡県立美術館 学芸員  中 島 由実子はじめに橋本関雪(1883~1945)は兵庫県神戸市坂本村(現在の中央区楠町)に生まれ、明治から昭和戦前期にかけて主に京都で活動した日本画家である。明治28年(1895)小学校を中退し、近所の四条派の画家・片岡公曠に師事した。明治31年(1898)に絵画修行を目指し上京するも翌年には神戸に戻り、明治36年(1903)からは竹内栖鳳の竹杖会に入会した。明治40年(1907)の第一回文展に出品するも落選、しかし翌年の第二回文展からは継続して出品、入選を続け、官展を中心に活躍した画家である。関雪は、播州の儒者の家系に生まれ、かつ海外からの船が往来する神戸の地で育ち、幼い頃から漢籍に親しみ、中国への関心が強かった。明治38年(1905)に日露戦争に従軍し、大正2年(1913)に初めて旅行に渡航して以後、生涯で60回以上ともされる頻度で中国を旅し、現地の画家や文化人と交流している(注1)。関雪は、後年に多く制作した猿をはじめとする動物画の画家として知られるが、生涯を通じて漢詩や中国故事を主題とした作品を多く制作している。戦前期の日本と中国の文化交流を見るうえで、関雪の作品や動向は注目に値するが、橋本関雪の作品研究はいまだ十分になされていない。拙稿「橋本関雪《木蘭》にみる画家の中国観─近代日本における「中国」表現の一例として─」(『デアルテ』36号)にて、関雪が漢詩「木蘭辞」を主題に描いた大正7年(1918)の第十二回文展出品作《木蘭》(白沙村荘橋本関雪記念館蔵)〔図1〕を取り上げた。「木蘭辞」は、関雪が生涯に少なくとも3回、うち2回は官展出品作として描いており、とりわけ高い関心を抱いていた主題であると言える。《木蘭》には関雪が持つ漢籍の知識と「中国」への関心が「木蘭辞」の表現に現れており、関雪の特異性と画業における充実した時期の作品であることを示した。しかし、これまで作品の制作に至る過程を十分に見る機会がなく、作品と残された言説のみからの考察となっていた。この度、関雪の残したスケッチ・下絵類をまとめて見る機会を得た。これらの調査から、関雪の中国観と、それに基づく《木蘭》の制作について、新たに判明したことについて論じる。第一章では、スケッチ類の実見調査で明らかになったことについて述べる。第二章では、スケッチ類と関雪作品とのつながりと《木蘭》の調査で判明したことを、第一章の内容も踏まえて検討する。―114――114―

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